2015年7月20日月曜日

真っ白なスクリーンまで 『リアル鬼ごっこ』

『リアル鬼ごっこ』(2015年/園子温監督)
【あらすじ】
追いかけて来るので逃げます。

ここまで、自分の感想と世間の反応がかけ離れているのは、人生で初かもしれない。
それほどに、私は『リアル鬼ごっこ』という映画を、甚だしき傑作だと感じました。

私が散見する限り、やれハナシの意味が分からないだの、やれ不条理過ぎてツマランだの、結末で萎えたやら、ただグロいだけの園子温ファン向け作品だの、皆さん異常に白熱していらっしゃいます。

もちろん、大いに結構です。

ただ単純に、この作品が、私にとっては「大変面白かった」作品であるということを、どうしても自己表明としてアゲインストしておきたいと思い立つに至りました。
これから私が延々書き連ねる駄文は、そういう意味合いとしてのアウトプットです。

ということで、お金も貰っていないのに徹底的に擁護しますよ!(笑)

【最上級な女優賛歌としての『リアル鬼ごっこ』】

まず、結論から言えば、『リアル鬼ごっこ』は「女優にとって"役を演じること"とは何か?」ということを突き詰めた作品だと思いました。
チラホラと、園さん流の女性賛歌という声も見聞きするのですが、それよりは「女優論」に関する作品だという印象の方が強いです。(ちなみに、女性賛歌としては『恋の罪』の方が色濃いかなと)

故に、女性でまみれた世界観も、生命力の儚さと共にきらめきが倍増したヴィジュアルに満ちていて、園さん的「女の園」と言いますか、可憐で素晴らしかったと思います。
尚且つ、そこでゴミくずの如く命が「遊ばれていく」描写も美しく、やはり映画の中の女性は死んでナンボだと改めて感じました(語弊を招く文章)

【死からの逃走ではなく、死に向かう疾走】

映画の中で女性たちがバンバン死んでいくのは、裏を返せば、『リアル鬼ごっこ』の主人公たちが、「死」から逃れるべく「生」を激走すると言うよりも、結果的に「死」に向かって「生きてみせる」=「走り抜けてみせる」というテーマを描いているように感じるのです。

華々しく死ぬことによって、逆説的に「生」を想起させるという感覚は、園さんが2002年に監督した『自殺サークル』においても問い続けていた主題です。
『リアル鬼ごっこ』の冒頭で描かれるバス真っ二つのスプラッター描写が、何処と無く『自殺サークル』冒頭の女子高生集団飛び込み自殺と重なるのは、果たして偶然なのでしょうか。
私は確信犯だと思っています。

つまるところ、『リアル鬼ごっこ』はちょち『自殺サークル』の延長線上に位置する作品であり、実質的な続編である『紀子の食卓』(05年)よりもスプラッター要素を含んでいるため、より寄り添った作品ではないかと。
ま、『自殺サークル』だって賛否両論、と言うかピばっかりですが(笑)、これまた私は大変好きな作品でありまして。そんなヤツの戯言は信用ならねえよ!と、たった今キレちゃった方は、ブラウザバックを推薦致します。
『自殺サークル』との関連性について、詳しくは後ほど。

(加えて、本編の内容と実は全然関係が無かった予告編では、子どもがJKの数を減らします云々のナレーションをしていますが、ガキんちょの声は反射的に『自殺サークル』を思い起こさせて仕方ありませんでした。ちなみに、予告編のハッタリに関しても私は大変好意的で、映画なんて期待を裏切ってもらい、心をえぐってもらうために劇場へ足を運んでいるので大いに結構です。東宝東和イズムで、これくらいは「釣って」いただかないと!)

【原作批評という病】

ところで、原作ファンの方々で、こんなの「リアル」でも「鬼ごっこ」でも何でもナイ!と憤慨している方がいらっしゃいました。
確かに、原作を愛読している方からすれば、原作とは全く異なるプロットに嫌悪感を抱くのは至極マットウなことでしょう。そりゃ原作ファンからは総スカンを食らうのも分かります。
しかしながら私は、園さんのこのアプローチを大いに支持します。これこそ、作家の姿勢ですよ。断じて間違っていません。
ちょっとハナシが横道に逸れますけれど、私がありとあらゆる原作映画化モノに対して抱いている持論がありましてですね。
とにかく、原作と映画を同じ天秤にかけて比べるのはヤメマショーヨ、と思っていまして。
もっと原作ファンに気を遣うべきだと言う方もいらっしゃいますけれど、その前に、映画ファンにこそ気を遣うべきなんですよ。
だって、映画なんですから。

原作は累計発行部数200万部のベストセラー小説、そして園子温リブート版はタイトルのみから想起した完全オリジナル、うん、最高にキュートなことだと思います。

そももそ私は、元々あの支離滅裂な原作のナニが面白いのか全く理解が出来ず、どうしてこんなにも映画になったりドラマになったりするのか不思議で仕方ない人間でして。と言うか、あの著者の作品で面白いと思ったホンが一冊も無く(笑)、つまるところ何が言いたいのかと言いますと、私は一片たりとも、あの原作の擁護派では無いということです。(やっべー、怒って追いかけたりしないでくださいよ・笑)

【園版『リアル鬼ごっこ』の「リアル」】

園版『リアル鬼ごっこ』の指す「リアル」は、現実と虚構という意味合いでの「リアル」として描かれます。原作ファンの方は激怒されていらっしゃいますが、いやはや、このタイトル以外考えられないでしょ。超絶ピッタリだと思います。

原作では「もしも、捕まったら殺される、本当に生き死にに関わる鬼ごっこをしたら……」という意味の「リアル」ですが、本作においては「どこまでが現実なのか、或いは夢なのか分からない」という悪夢的円環構造としての「リアル」が描かれています。
鬼ごっこという子どもの遊びが人間の命に関わることと、果たして自分が今経験している世界は夢かウツツなのかという感情は、全く異なるものです。
なので、前述した原作ファンの方が言う「リアル」ではないというのは、実は確信犯的、明確なことなんです。同じタイトルですけれど、別の側面、別の意味合いとしてのハナシなワケですね。(ま、異なっているからこそ激怒されているとは思うのですけれど)

ちなみに、これは余談ですが、園版『リアル鬼ごっこ』における「リアル」の扱われ方というのは、園さんが最も尊敬している寺山修司の監督作品『田園に死す』に類似しているかと思うのですが……私の深読みですかね。にしても、あらゆる媒体のどのヒョーロンにも、テラヤマの文字はありませんでした。この題材で、監督が園子温ですよ? ライターの皆さん金貰ってんでしょ、しっかりしてくれよ! こっちは一銭も貰ってないんだから!(笑)

【通過儀礼としての擬似的な死】

この「リアル」の境界線が物語の推進力になっているかと思われますし、故に本作は当たり前ですが「映画」なので、ここで描かれている「リアル」は総て「リアル」では無い、ということでもあります。(頭が痛くなる文章……)

要するに、「リアル」だと信じているのは劇中のミツコたちのみであり、観客はもちろん、これがフィクション=虚構であるということを前提に物語を追い続けていきます。
つまりは、この物語で描かれている死とは「リアル」ではなく、「擬似的」な死の羅列として提示され続けるのです。

では、擬似的な死とは何か? なぜ、死はグロテスクで無ければならないのか?

園さんは、こうした少女たちの死を、ある種の「通過儀礼」として描いているように感じました。
何のための通過儀礼かと言えば、それはオトナになるための経験に他なりません。
ここまでグロテスクな通過儀礼を経験しなくてはオトナになることが出来ない、現代日本の異常なまでの歪さが暴かれます。
と言うか、これこそが『自殺サークル』の主題であり、『紀子の食卓』のテーマであったワケですね。残酷な自殺描写や擬似家族の崩壊。園さんは両作において、ソレを描き続けていました。

で、『リアル鬼ごっこ』は、「擬似的な死を持って自我を奪還するまでの過程」を描いた作品とも読み取れるのですが、恐らく、今回の着地点はソコでは無いと思うのです。

(以下、結末部分に言及するため「ネタバレあり」の文章となります。私個人としましては、ここまで世間の声と乖離しているのは、むしろワタシ側に趣味嗜好の問題があるのでしょうけれど、それでも、凄まじく好きな作品ですし、これから何度も鑑賞していきたい映画です。そして、この映画を愛していることを、大変誇りに思います。これから鑑賞される方は、是非とも「プログラム・ピクチャー」という映画の存在だけは既知して劇場に足を運んでいただきたい次第です。)


【少女たちは「何」から逃げるのか?】

さて、園版『リアル鬼ごっこ』 における「鬼」とは何なのでしょうか。
私は「リアル」の意味を「夢かウツツか定かではない境界線としてのフィクションライン」だと仮定しました。では、そのような世界で繰り広げられる「鬼ごっこ」とは一体何を表しているのでしょうか。

……なんてことを考える前に、ちょち原点に帰ってみましょう。
そう、そもそもの鬼ごっこのルール。
 ま、子どもだった全ての皆さんはご承知の通り、「メンバーからオニ(親)を一人決め、それ以外のメンバー(子)は決められた時間内に逃げ、オニが子に触ればオニが交代し、遊びが続く(Wikipediaより引用)」というのがルールです。

はい、オサライしてみるとよく分かります。
鬼ごっこというのは、そもそも鬼にならないため=鬼になりたくないから逃げる遊戯なワケです。
要するに、「なりたくない自分」から逃げているんですよね。怖いから。
それって、『リアル鬼ごっこ』のミツコちゃんも、果たして同じなのではないでしょうか。
ミツコが逃げるのは、得体の知れない「何か」の存在からではありません。
追いかけて来る「自分自身」から逃げているのです。

夢かウツツか定かでは無い世界の中で、見えない自分自身から逃走するミツコたち。
複数形なのは、ミツコはケイコであり、いづみでもあるから。
ミツコを演じるトリンドル玲奈さんの顔が篠田麻里子さんの顔に変貌した瞬間、身体中に電撃が走りました。
だって、顔はケイコでも、心はミツコのままなんだから。
それはケイコからいづみへと変貌しても同じこと。
まるで、ミツコという自我が、ケイコやいづみという空っぽの容器に移し替えられたような感覚です。
いや、「映し替えられた」とでも言いましょうか。
姿形や名前が異なる「全く別の人間」であるにも関わらず、ミツコの自我を保ったままのケイコといづみは、おぼつかない表情のまま、状況が理解できずに右往左往します。

……ん? ちょっと待ってください。これって、ナニカに似てません?
女優に。
それも、別の人間に成りきることが出来ない=自我を保ったままの女優に。
より簡潔に言えば、芝居が、演技が下手な女優のことではないのでしょうか。

ここでようやく、この映画が「女優」に関するハナシだという思考にシフトチェンジしていきます。

そう、園版『リアル鬼ごっこ』は、映画内で経験させられる擬似的な死を通して、少女が「女優」になるまでの過程を描いた物語なのではないのか、と。
そして、彼女を追いかけるのは「彼女自身」の自我であり、自我を殺害することによって初めて「女優」と化す瞬間を捉えた、極めて感動的な物語であるのではないでしょうか。
言うなれば、スプラッター・アクトレス・ジャーニー!(なんじゃそりゃ)

【「ミツコ」たちと園子温の鬼ごっこ】

ミツコ」とは、園さんの映画に幾度と無く登場する名前です。本人の談によれば、小学生の頃に好きだった初恋の女の子の名前らしいです。
ケイコ」は園さんのかつての恋人だった女性の名前で、1997年に発表した『桂子ですけど』は、当時の恋人だった鈴木桂子さんを撮った映画です。
いづみ」は園さんの母親の名前であり、『恋の罪』の神楽坂恵さんの役名であり、彼女の本名でもあります。

「リアル」な世界に生きる3人の女性を、姿も形も違う、全く別の女優に「演じさせる」。
まるで、その行為自体を視覚化した今回の『リアル鬼ごっこ』のプロットは、実に園子温の作家性らしく、パーソナルな題材だと思います。

もしかすると、園さん自身は、ミツコたちの呪縛から逃れられていないのではないでしょうか。
だから何度も、ミツコたちを女優たちに演じさせ、命を吹き込ませます。
それは逃れられないから描く、或いは逃れたいから描く、という屈折した愛情であり、作家にとっては救済でもあります。
何が言いたいのかと言えば、園さんも逃げてるんですよ。ミツコたちとの鬼ごっこが、まだ終わっていないんです。
いや、もしかすると永遠に辿り着けないと理解していながらも、何とかそこに近付こうと「向かっている」のかもしれませんが。芸術の力を信じるとは、そういうことです。

【経験していない「経験」を見る】

いづみに姿を変えたミツコは、マラソン仲間たちと走りながら、次第に小学生の頃の運動会の記憶を思い出します。そして、走ることの喜びと希望を見出すのです。そんな経験していないのに。
このシークエンスで描かれた「幼少期のいづみの運動会」というヴィジョンは、「いづみであるミツコ」の脳内には存在していません。故に「リアル」ではない、想像、妄想のヴィジョンです。
では、何故こんなヴィジョンをわざわざ挿入したのかと言えば、それこそ、やはり本作が女優についての映画たる由縁。
コレ、女優が実践していることと同じですよね。
「わたしが演じるこの人物は、こんなことが起きる前にどんなことを経験していたのだろう? そして、一体どんな人間だったのだろう?」経験してもいない過去を回想することによって、役柄をより深みの増したキャラクターにすることは、恐らくほとんどの女優が行うメソッドです。
つまりは、経験してもいない記憶が刷り込まれて架空の人物と同化していく過程を、あのマラソンのシークエンスでは「役作り」のメタファーとして描いたのだと思いました。

【スタニスラフスキー理論は「リアル鬼ごっこ」】

ええー、もしも万が一、現役の役者の方がリアルタイムにこの駄文をお読みになられているのであれば、恐らくは「スタニスラフスキー」という言葉が脳内に出現したかと思われます。
演劇をしたことのある人ならば知らない人はいないはずの「スタニスラフスキー理論」ですが、『リアル鬼ごっこ』はこのメソッド演技に関するハナシだと読解できなくもありません。
ま、どんな理論かと申しますと、超簡単に言えば、ロシアのスタニスラフスキーさんが定言した「役を演じるのではなく、その人になっちゃえ!」という思考のことです。
要は、役者がその人自身に成り切ってしまえば、その人自身なのだから、全ての台詞や行動がより自然な演技になる、というもの。俗に言う「憑依型」という演技法で、マーロン・ブランドやロバート・デ・ニーロ、最近だとダニエル・デイ・ルイスなんかが有名なハリウッドのメソッド俳優ですね。

で、『リアル鬼ごっこ』は「別の人間になる」ということに重きを置いたプロットなので、当然この理論を想起させる構造になっているのは確かです。
なるほど、マーロン・ブランドもデ・ニーロもデイ・ルイスもやってるワケですね。
自身の自我と、役柄との「リアル鬼ごっこ」を。
本作は、そういう主観を視覚化したエポックな作品でもあります。

また、余談ですけれど、女優が現実と虚構の狭間で漂流し続けるハナシと言えば、我が愛しのデヴィッド・リンチ監督による『マルホランド・ドライブ』(01年)や『インランド・エンパイア』(07年)などが既存しています。
これらも、主人公が自身と役柄の区別が不能となる悪夢的な「女優論」に関する作品でした。
尚且つ、客観でストーリーを追いかけると何が何だかサッパリなのも両作の特徴。
『リアル鬼ごっこ』も、客観でストーリーを追いかけるのではなく、あくまでも「ミツコ」の主観として推進していることを意識してみると、より理解しやすくなるはずです。

【監督のメタファーとしてのアキ】

さらに付け加えると、ミツコたちが混乱した時には、必ず桜井ユキさん演じる「アキ」という存在が登場します。
バスでの大スプラッターから生き延びたミツコは、知らぬ間に女子高へと登校をしています……ってナニコレ!どーなってんの!とパニックになるミツコに対して「あなたはここの高校にずっと通っていたんだよ」と説明するアキ。
それでも風に怯え続けるミツコに対して、窓を開けて風に当たってみせるアキ。「いい風だよ、ミツコも当たってごらん」と促すも、恐怖するミツコ。そこでアキが半ば強引にミツコの手を窓からヒョイと出させると……き、気持ちいい……ミツコにとって、数分前まで「死」を運んでいた風が、アキの行動によって「生」を実感させる存在へと変わったのです。

これって……「演出」じゃないですか。
何故なら、アキは女優に手を差し伸べる監督なのだから。
周囲の友人たちから「ミツコとアキってレズカップルみたい」と揶揄されるシーンがありますが、他者とは異なるミツコに対するアキの異様なベタ付きぶりも、まるで女優と監督の関係性を感じさせます。
アキがミツコにクラスや座席を指定するのも、彼女だけが全てのシナリオを知っているのも、全てが確信犯のはずです。

監督のメタファーであるアキは、終盤、いづみの姿をしたミツコに、ある「演出」を施します。
「わたしはミツコって言って! 何度も言い続けて!」
ここまで自我との別離を描いてきたハナシにも関わらず、ここでアキはミツコの自我を再び呼び覚まそうと試みるのです。
と言うよりは、ケイコ、いづみを「演じた」ミツコを見かねて、いよいよ「演出」として最終手段に乗り出すんですね。
要するに、ミツコを自分自身と向き合わさせるために、彼女が「自分」から逃げることを阻止するんです。
名前を復唱させるのは、モチロンそういう意図のため。
コレ、矛盾しているようですが、恐怖し、逃げ続けていた自分自身と対峙する、ようやく触れるフェーズが到来したことを意味しているかと思います。
より簡潔に言えば、「自分殺し」の段階に監督が送り込んだとでも言いましょうか。
「いっちょ本当の自分をぶっ殺して来い! テメェが女優ならばな!」
「監督」の、そして「女優」の暴走によって、「映画」は予定調和から脱却を開始します。

「わたしは……ミツコ!!」
ミツコの中の自我は、やがては本来の自分を取り戻し、文字通り、監督を切り裂いて=演出の範囲内から抜け出し、その先に輝く光の中へと歩き始めます。
「光」とは何か。
我々、映画ファンが最もよく目にしている光があるじゃないですか。
まさしく、それは映写機の、つまりは「映画」の光なのです。

【映画のディストピアとの対峙、そして自分との対峙】

映画の光に飛び込んでみたものの、そこで待っていたのは地獄のような光景でした。
だって、むさいオトコばっかりですものー。
男まみれの世界観というのは、まあ『マッド・マックス』などもそうですけれど、何処となくディストピアな感覚を持ち合わせていますよね。園さん的には、今のママじゃ数百年後の映画界はこんなんなってまうぞ!という叫びなのかもしれませんし(笑)
女子校出身の女の子が男子校に迷い込んでしまったかのような表情を見せるミツコは、次第に自分たちがゲーム=ヴァーチャルの世界で「遊ばれていた」ことを知ります。

この展開に意外性も驚きも全く無い、と怒っていらっしゃる方もいましたが、散々フィクション=虚構側を描いてきた物語が、最終的にその境界線を飛び越えてノンフィクション=現実側で決着を着けようと試みるのは、大変エモーショナルな展開だと思いますし、必然的なことだと感じます。
特にドンデン返し的なサプライズやカタルシスが皆無なのは、別にコレが、そもそもドンデン返しでもサプライズでもないということを忘れないでいただきたいです。

本当のサプライズである、斎藤工くん(!)の登場によって、ミツコは新たな光の中へと進んで行きます。
洞窟の外へと歩むミツコの姿が徐々にフェードアウトしていき、雪が降る中で目を閉じた彼女の姿がフェードインします。
画として映し出されるのは、光の中へと消えるミツコが、雪景色に佇む彼女の、丁度心臓の辺りに位置している映像なのです。
その編集は、まるでミツコが彼女自身の心の中へと入っていくような演出になっています。
この感動的なカットを鑑賞出来ただけでも、私はこの映画を観た価値があったと信じています。

【廃墟のような邦画界】

園さんの映画で事あるごとに登場する、廃墟。
このロケーションが意味しているのは、恐らくは心の空虚さや空っぽさソノモノなのでしょうけれど、『リアル鬼ごっこ』というフィクションラインが舞台の作品内では、果たしてどうでしょうか。
確かに、前述したように、ミツコは彼女自身の心の中へと侵入して行きます。だからこそ、あの廃墟が心そのものだと言う考えには、とても合点が合うのです。
しかし私は、あの廃墟こそ「現代日本映画界の縮図」のように感じました。

マネキンのように型にハメられた少女たちは、ゴリ押しされ続けるタレントや役者のようにも見えます。あの穴の数だけ事務所があるのでしょうし、或いは、あの穴の数だけテレビ屋がいるのでしょうし。そして、「型にハマった」芝居しか出来ない役者たちのメタファーなのでは、とも思いました。

このシークエンスで発覚するのは、ミツコとその仲間たちがガラスケースの中に保存されており、彼女たちをゲーム内のキャラクターとして使用していた、ということ。
「ネームバリューを重視して同じ役者でしか遊ばなくなった」、現在の邦画界にも類似しています。
しかも、そこで斎藤工くんは『グランド・セフト・オートⅤ』よろしく、主人公たち3人を交代しながらゲームとして遊んでいたワケですね。(『グラセフ』のプロットをそのまま映像化したのも、恐らくは邦画史上初です)

老いぼれた斎藤工くんは誰なのかと言うと、一見すると監督や観客のメタファーかと思いがちなのですが、私は彼、プロデューサーなのではないかと思いました。
とは言え、特にプロデューサーの皆さんを非難しているつもりは一切ありませんで(笑)、要はテレビ資本映画における、イメージとしての悪漢プロデューサーと言いますか。あくまでも、園さんの中でのイメージとして、ですが。

そんな悪漢プロデューサーが、俺の夢はコレだ!と言い放ったのが……ミツコちゃん、君とエッチすることだ!
ぎゃふーん、と、真っ白なブリーフ姿の斎藤工くんを観て私は爆笑してしまい(まあ、劇場で笑っていたのは私だけでしたけれど・笑)、あまりに唐突なコミカルに意表を突かれました。
とは言え、これが単なるコミカルでは無いのもまた事実。要は、マヌケな描写なんですが、ちょち絶望感もあると言いますか。
つまりはこの斎藤工くん=悪漢プロデューサー、別に面白い映画が作りたいワケじゃないんですよね。ただ単に、俺は女優と寝たいだけ、と言っているワケです。
現実の映画界が、映画への愛のカケラも無い、あんなブリーフ姿のプロデューサーばかりで溢れていたら、それって絶望ですよね?
映画という文化は、衰退どころか滅亡しますよ。
と言うか、もはや溢れて返ってしまっているのか?!(笑)
監督のメタファーであるアキが、間接的にミツコを斎藤工くんの場所まで送り出してしまっているのも、また何とも皮肉。

【真っ赤に染まった羽毛】

ファイナル・ディメンションへと突入した物語は、ミツコを直接的な自我との対峙へと導き始めます。
ミツコが、女優として、映画を、そして自分自身を救うためにどうするべきなのか。
文字通り、「自我を殺す」ことによって彼女の通過儀礼は役割を果たすのです。

「わたしたちで遊ぶな!」

廃墟に居たミツコは、突如として過去のフラッシュバックを開始します。
それは、湖のほとりでアキやシュールたちと枕投げをしていた時。
ミツコの人差し指に姿を現した、まるで針先で刺したかのような、一粒の「血」。
ミツコが運命を変えることを決意した瞬間、人差し指の血液に、引き寄せられるように羽毛が吸い付きます。
真っ白な羽毛が、血で染まり切り、やがて真っ赤な羽毛へと姿を変えます。

一見、ここで言う「羽毛」を「女性の純白さ、汚れなさ、処女性」のメタファーだと仮定すると、これは「初潮」や「セックス」の暗喩のようにも思われます。
例えば、前半で「ミツコはまだバージンだから」という台詞が組み込まれていたり、「女の子はいつだってヘンなのよ」という類の台詞から、真っ赤な血を初潮、或いは処女喪失のメタファーとして読み取れなくもありません。
私は結局のところ異なる見方をしましたが、廃墟そのものがミツコの「心」ならば、そこに居座り快楽を求める斎藤工くんは、性欲=イドのメタファーなのではないか、とも読み取れるはずです。
だからこれは、自身の中のイドを殺して、女性にとっての処女性みたいな観念を取り戻すハナシ?それともイドを受け入れて、処女喪失を女性の通過儀礼として描くハナシ?とも、ま、如何なる読み取り方も出来ると思っています。

しかしながら、私は本作を「女優論」のハナシだと信じていますので、ここで軌道を修正。
自身の血=肉体を持って何かに生まれ変わったり表現したりすることとは何か?
ズバリ、女優です。
ミツコは女優のメタファーと仮定しているので、彼女の感情が揺れ動いた瞬間に、真っ白な羽毛を彼女自身の肉体を持って真っ赤に染めたという描写は、極めてエモーショナルな快感に満ち溢れています。
真っ白な羽毛は、「空っぽの、血の通っていない女優」そのものなのではないでしょうか。そう、演技が下手な女優の。
だからこそ、赤く染まった羽毛は、まさに「血の通った演技」を獲得したことの象徴のように感じられます。
ミツコはようやく、「女優」と成り得る準備が整ったのです。自身の血を介して。

全ての女優は、真っ白な羽毛を真っ赤に染めなければならない、自分の血で、肉体で、身体で。
映画女優の最たる美点は、己の肉体が滅びようとも、その命はフィルムの中で永遠に生き続けるということです。
その永遠の命を獲得するためには、羽を真っ赤に染める必要があるのです。

タイトル・バックから舞っていた真っ白い羽毛は、映画を救済する女優たちの背中に生えた「天使」の羽です。
映画にとって、園さんにとって、女優とは天使のような存在なのでしょう。
それって、何とも美しい女優観だと、私は思います。

【スクリーンの中でしか死ねない女】

しかし、自身の血=肉体でキャラクターを補完しても、「女優」の役割はそれだけではありません。
何度も述べているように、自身の中の「自我」との決別を達成しなくてはならないのです。

斎藤工くんから杖を奪ったミツコは、自身の腹部を目掛けて、それを思い切り突き刺します。
そのままミツコは、真っ赤な羽毛の上へと倒れ込み、息を引き取るのです。

これこそ、本作が目指してきた「自我」との決別が達成された瞬間です。
『リアル鬼ごっこ』が提示しているのは、恐らくこの「自我」との別離までの過程として、「自我」を殺害するためには、それ以前に「別の自我」を備える準備が整った「女優」になっている必要性がある、という思考なのでしょう。
だからこそ、「自我」を殺害する前に、あの羽毛が真っ赤に染まる一連のシーンが配置されているはずです。
まず、血の通った肉体=ウツワを用意して、それから「自我」を切り捨てることによって、空っぽではあるが血の通った「女優」のウツワが完成するのです。

パラレルに挿入されるミツコ、ケイコ、いづみたち三者の「死」は、いずれも物語から解放されるための「自殺」(いづみに関しては死因が不明なのですが)であり、永遠に堂々巡りで終わることの無かった「映画」の終結を意味します。
そして同時に、無間地獄に縛られ続けた彼女たちが、ようやく「彼女たち自身」へと変貌し、自身の消滅を持って救済されたことも意味しています。
ミツコが自我を捨て「ミツコ」ではなくなった=女優と化したことにより、呪縛され続けていた「キャラクター」たちは、ついに葬られることになるのです。
彼女たちにとっての「リアル鬼ごっこ」の終了です。

『リアル鬼ごっこ』は、女優を殺し続けた「映画」による敗北宣言であり、救済でもあります。

全ての女優たちは、「映画」に殉愛している存在だと言っても過言ではありません。
殉愛とは、「ひたむきな愛を貫くために、命を投げ出すこと」(日本国語大辞典より)という意味です。
別に、「映画のために本当に=リアルに死ぬ」、ということではありません。
「映画のために"疑似的な死に向かって走れるか"」、ということだと思っています。

果たして現在、何人の映画殉愛者がいるのでしょうか。
きっと、一人でも多くの殉愛者がいた方が良いと思います。
その方が、映画はもっと美しくなるはずですから。

【スクリーンの中でしか生きられない女】

さて、本作はラストシーンであまりにも美麗な回答を示します。
辺り一面、純白に染まった雪景色。
映画館で鑑賞していた私たち観客はそこで気付きます。
まるでそれが、スクリーンそのものだと。

映画のスクリーンが真っ白なのは、女優たちが美しく血を流すための色であるから。
もしかすると園さんは、そんな真っ白いキャンバスを染める女優たちの「色」を信じていたのかもしれません。

「死」を持って完璧なまでの役柄、及び自我との別離に辿り着いたミツコ。
倒れ込んだ彼女の表情は、どこか安堵しているようにも見えます。
しかし、真に美しいのはラストカット。
彼女は立ち上がり、再び走り出すのです。

この映画のミツコは「死」に向かって走り続けます。
いや、「死に場所」が「映画」ならば、それはつまるところ、彼女は「スクリーン」に向かって走っていたことになるのです。
女優に寄り添った、粋なプロットだと思えて仕方ありません。
走り出したミツコがフレームアウトした瞬間、彼女が次なるスクリーンを目指して激走していることが分かります。
もう、彼女は「自分自身」に追い掛けられてはいません。
向かっているのです。
次の役を、次の映画を目指して。
なぜ?
それは彼女が、女優だから。

園さんの声が聞こえてくる「殉愛をやめるな、映画のために、走り続けろ」
女優たちのジャーニーは、きっとこれからも続く。
映画が死なない限り。


『リアル鬼ごっこ』は、女優という業(カルマ)を通して、
まるで、精神分析学者のフロイトが提唱するところの「イド・自我・超自我」たちの逃避行を視覚化したような、日本映画では珍しいエポック・メイキングな一本であると、私は胸を張って断言致します。

アート映画っぽい、理屈っぽくてムズカシイ、なーんて声にも、モチロンうなずけます。
現役女子高生の方々が鑑賞しても、もしかするとピンとは来ないのかもしれません。
はたまた、テメェが書いた長文テキストが駄文・乱文過ぎて本編鑑賞後よりも呆れ返ってるわボケェ!と、激高なさっている方もいらっしゃるかもしれません(笑)

ただ、私は持論として「どんな映画にも面白いところはある」と信じている人間です。
どうにかしてその「面白さ」を発見したい、尚且つ共有したいと、常々強く思っています。
だから、この13000字以上にも及ぶテキストは、『リアル鬼ごっこ』を素直に面白く鑑賞した、私なりの「見方」の提案でしかありません。

少しばかり話は逸れますけれど、嘘偽り一切無く、私はこの世に誕生した総ての映画に「存在価値」があると確信しています。

どんなにツマラナイ作品にも、きっと「面白い」魅力は存在しているはずです。そんな魅力を発見することが、我々、映画ファンの使命なのではないでしょうか。

映画ファンというのは、映画をたくさん観ているから欠点を見破られる人間のことではありません。
色々な映画の「見方」を知っている人間のことを言うのです。

映画ファンだからこそ、どんなにツマラナイ映画でも楽しむことが出来るはずです。
それは映画好き故の特権であり、同時に存在価値でもあると思うのです。


このテキストが、本作をつまらなかったと感じた総ての皆様、或いは、世間の酷評に戸惑っている「本作を純粋に楽しんだ」総ての皆様の元へ届くことを願っています。
前者の方におかれましては、モチロン、私の駄文・乱文なんかで何もインセプション出来ないことは自覚しております。
それでも、もし一人でも私が提案した見方を持って「もう一度観てみようかな」と感じてくださった方がいらっしゃいましたら、こんなに嬉しいことはありません。
そして後者の方、世間の評判なんかを崇拝する必要はありません。
自分の好きなものを、好きだと信じられていることに誇りを持ってください。

以上、とある映画好きによる、『リアル鬼ごっこ』の「見方」のレポートでございました。


余計なお世話だバカヤロウな追伸1
主演を務めたトリンドル玲奈さん、篠田麻里子さん、真野恵理菜さんのお三方は皆さん最上級に素晴らしい好演でしたけれど、兎に角、まさかトリンドルさんという女優がこんなにも演技巧者だとは予想だにせず。
美しい容姿は勿論のこと、怯えた顔や絶叫する様の説得力に、スクリーミング・ヒロインとしての役割をオールクリアしているように感じました。
走り方がどーのこーのと書かれた評も読みましたけれど、ミツコは「未完成な女優」の象徴なので、序盤から走りのフォームが美しくある必要性は無いかなと。
とにかく、生まれたての小鹿のような生命力の乏しさが、逆説的に少女のキラメキを倍増させており、彼女が画面に映るシーンは目が離せませんでした。いやはや、ファンになりましたよ(←綺麗な女性を見ると大抵はこの台詞)。

余計なお世話だバカヤロウな追伸2
本作についてナニカ書く際に、シュールちゃんのことに関して何一つとして書かないのはさすがにどーかと思いましたが(笑)、ま、私はあまり彼女には着目しませんでした。
と言うのも、彼女は「人生はシュールだ、シュールに負けるな」という園さんが伝えたいメッセージそのもの=「記号」でしかなく、「記号」としての役割は正しく果たしているのですけれど、如何せん、キャラクターとして個人的には感情移入が難しく……とは言え、中指を立てる行動や身に付けているアクセサリーから類推するに、『愛のむきだし』(08年)で満島ひかりさんが演じたヨーコの別次元での姿なのでは?とも思ったりしましたよ。


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