2015年3月28日土曜日

ペンも拾えぬ僕だから 『博士と彼女のセオリー』

『博士と彼女のセオリー』(2014年/ジェームズ・マーシュ監督)
【あらすじ】
天才の身体がやばいので、奥さんが支えます。

毎年の恒例行事としてアカデミー賞の予想を勝手にしているのですが、主要ノミニーに関しては、ココ5年間連続で的中させていたんですよ。
が!今年、ついにその連勝記録にピリオドが打たれてしまいました。ファック!(別に誰も損はしない)
外してしまったのは、主演男優賞。
私は『バードマン』のマイケル・キートンを予想していたのですが、結果は本作『博士と彼女のセオリー』のエディ・レッドメインくんが見事オスカーに輝きました。
確かにレッドメインくんは若手演技派ではありますが、彼はまだ若いですし、まさか『レミゼ』の革命野郎が獲るとは思っていませんでした。(語弊を招く文字列)
しかし、いざ映画本編を観たら超納得。こりゃあオスカー差し上げないと、ってなりますよ。
(ちなみに監督賞もハズしまして、私は『6才のボクが、大人になるまで。』のリチャード・リンクレイターを予想したのですが、結果は「声に出して言いたい監督」ことアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥさんが受賞なさりました。)

本作は、理論物理学者であるスティーヴン・ホーキング博士の奥さん、ジェーン・ホーキングさんの回顧録『Travelling to Infinity: My Life with Stephen』が原作。
1963年ケンブリッジ大学で出会ったホーキングとジェーンが、ホーキングが患った大病をキッカケに、互いに惹かれ合いつつ摩擦していく、25年の夫婦生活を描いたオトナな一本です。

当然、主演はホーキング博士なのですけれど、結論から言うと、私は奥さんのジェーンさんの姿に胸を打たれてしまいました。
なるほど、夫が大病に倒れようとも、必死に彼を支える献身的な姿に涙したのね…
と、思われたアナタ。
否!
これが全然っ、そんな綺麗ごとで済まされるハナシじゃねぇんだよ!、というのが本作のキモです。

結論から言うと、夫婦でお互いに愛し合ってるのは確かなんですけれど、だからこそお互いに裏切り合う、ちょち怖いけど、かなーりオトナなラブストーリーだと感じました。

エディ・レッドメインが演じたホーキング博士ですが、芝居と言うより、もはやメタモルフォーゼの域に達しています。
凡庸な言い方ですが、本当にALS(運動ニューロン疾患)患者にしか見えないんですよ。
しかもコレ、パンフレットにて映画評論家の杉谷伸子さんも書かれていましたが、この手の俳優が醸しがちな独特の「熱演感」と言うか、「ドヤッ!俺ってすごいやろ!」な自己顕示欲がですね、ほぼゼロに等しいんです。
つまり、観客に全く「演技」として意識をさせず、スクリーンに映っているメガネが汚れた青年は「スティーヴン・ホーキング博士本人」であると思わせるチカラが、彼にはみなぎっているのです。

言ってしまえば、私は若かりし頃のホーキング博士のことを微塵も知りませんでした。
当然、彼にも青春時代があり、もちろん普通に歩いたり、話したりしていたはずです。そう、それは当然なんです。でも、やっぱり車椅子に乗っていらっしゃる姿でしか博士のことを認識しておらず、彼の私生活については、まず知ろうとも思っていませんでした。

だからこそ、本作が描く「天才」だけではない「人間」ホーキング博士の実態の面白さや魅力には、驚嘆すると同時に、非常に感心させられた次第です。
ってか、ホーキング超楽観主義やんけ!と、まず彼のポジティブ・シンキングな性格にびっくり。
治療法の無い病を患い、余命2年を宣告されたにも関わらず、彼の口から弱音は吐かれません。口から出るのはユーモア溢れる発言ばっかり。と言うか、病気になる前からオンナ好きだしギャンブルも好きだったみたいで、元々ド真面目な性格ではなかったんですね。
例えば、2段ベッドから降りる際に階段を使わず、そのまま机の上に足を降ろすという場面があります。この細かな仕草一つから見ても、決してただのインテリ青年ではなく、頭以外の中身は、実は私たちと何ら変わりないというリアリティをもたらしてくれるのです。
なるほど、ホーキング博士ってこんなに明るくて面白いヒトなんだぁ、と発見できましたし、彼の楽観的な性格のおかげで、難病モノにありがちな、いわゆる「お涙頂戴」な展開に走っていないのも好感が持てました。


で、奥さんのジェーンさんを演じたフェリシティ・ジョーンズですよ!
告白しますけれど、完全にフェリシティ・ジョーンズのファンになってしまいました。
もうね、彼女に胸を打たれてしまったんです。
オマエ、年中誰かに胸打たれてるな、と思われるかもしれませんけれど、仕方ないですよ、恋多き男なんです(笑)
あと、面食いなんでね。ハリウッド女優さんで綺麗な人は、すぐ好きになっちゃいますから(笑)
もはや私は、「ジョーンズ」という文字列を見聞きした際に、それまでのボンクラ脳が導き出していた「インディ・ジョーンズ」という連想は無くなり、「フェリたん!フェリシティ・ジョーンズたん!」と反射的に思い浮かべることに成功しておりますので。

よく考えてみれば、私がフェリたんとファースト・コンタクトを果たしたのは『アメイジング・スパイダーマン2』の時だったんですね。
当時はあまり意識していませんでしたが、彼女は、デイン・デハーンくんが演じたハリー・オズボーンの秘書ことフェリシア・ハーディを演じてたんですよ。
スパイダーマンの原作読者の方は、この「フェリシア・ハーディ」という名前を聞いただけでもハッ!としてしまうのですが、それもそのはず。
実を言うと、スパイダーマン史上最大のエロキャラにしてお色気担当ヴィラン、ブラック・キャットの本名が「フェリシア・ハーディ」なんです。
(コレ、ネタバレでも何でもないですよ!超有名なエピソードですから!)
なんちゅーこった!じゃあこの秘書チャンが3作目以降でブラック・キャットに変身して、スパイディとあんなことやこんなことを…と、妄想を掻き立てられておりました。

ということで、『博士と彼女のセオリー』では、まだおとなしいブラック・キャットことフェリたんが本当に可愛いのです。(色々と混乱している)

↑『アメイジング・スパイダーマン2』より、秘書のフェリシアを演じるフェリたん。
フェリたんと俺は既にこの時に逢っていた!これは運命だ!(重症)
フェリシティ・ジョーンズ、何が素晴らしいって、彼女の喜怒哀楽の表現の豊かさですよ。
もちろん、表情による芝居という面では、エディ・レッドメインによる眉毛や瞬き一つの動かし方まで徹底した表現力も凄まじかったのは確かです。
しかしながら、フェリシティ・ジョーンズの顔面威力も負けず劣らず。
優しく微笑む表情は、すこぶるキュートで愛くるしい輝きを放ちますが、むしろ彼女の本領が発揮されるのは無表情の時だと思ったんですね。
蓄積された怒りや哀しみを押し殺して、無表情ながら真っ直ぐな眼差しを送る、その「顔面威力」の強大さ。
「静」の表情を見せながら、隠された、いや、どうしても滲み出てしまう「動」の感情を垣間見てしまい、その時スクリーンは、完全に彼女に支配されるのです。
笑顔を浮かべている彼女も十二分に美しかったのですが、押し黙ることによって見せる苛立ちや悲哀の表現が、本当に見事としか言い様がありませんでした。
俺も睨まれたい!(当分、この病は治りません)

どこかで聞いたことのある、ファミリーレストランみたいな名前の優男さん。
さてさて、中盤、このホーキングとジェーンの間に、チャーリー・コックスさん演じるジョナサンという優男が登場するんですよ。
このチャーリー・コックスさん、スコセッシが製作総指揮を務めた『ボードウォーグ・エンパイア』のシーズン2&3で、主人公のスティーブ・ブシェミのボディガードをやってた人なんですね。(あと、テレビドラマ版『デアデビル』の主演も決定したそうな!)
彼が登場してから、ホーキングとジェーンの仲は、少しずつすれ違い始めるのです。
…って昼ドラか!と思われるかもしれませんが、いやいや、これが全くソッチのドロドロ展開はせず。まさに観客の予想とは異なる、大変オトナな回答を示すのが、本作の特筆すべき点なのです。

ジェーンとしては、わたしひとりで介護するのは大変だからと、ジョナサンに助けを求めるんです。
ただ、ホーキングからしてみれば、家庭内に他の男が入って来るのがスゲェ気に食わないワケですよ。
だから最初は、ジョナサンに対して敵意むきだしなんです。

ホーキング家で、ジョナサンが夫婦と一緒に食事をするシーンがあるんですね。
その時に、ジョナサンが食事を、スプーンでホーキングの口元まで運んであげるんですよ。
つまりは、「あーん」してあげるんです。
だけど、ホーキングは、もうあからさまにガン無視かますんですよ(笑)
お前がすくった喰いモノなんか喰わねえよ!って。男として、夫として意地張っちゃう。その姿がすごいおかしいんですけどね。
でも、ホーキングも徐々にジェーンの気持ちに気付いてきて、結果的にジョナサンが介護を手伝うことを認めます。
それは彼なりに、辛い決断の一つだったんですよね。

少しばかりうがった見方をすれば、奥さんの浮気と言うか、そういうスキャンダルを自ら肯定して認めるみたいな、そういう感覚なんですよ。

対してホーキング自身も、物語の終盤、ジェーンに対してどういう決断を迫るのか。
そしてジェーンは、果たしてそれをどのように認めるのか。
傍から覗けば、実にスキャンダラスな関係性に見えるかもしれない、ホーキング夫婦の「カタチ」。
しかしながら、当の本人たちにとっては、お互いを心から信頼し合っているからこそ導き出された「カタチ」そのものなのです。
だからこそ、我々観客は、この驚くべき不思議な夫婦の「カタチ」を目の当たりにしても、決して嫌悪感は抱かず、むしろ祝福するかのように、彼らの結論に心奪われるのです。

これはプロットからも容易に想像できる通り、『ブルーバレンタイン』とか『レボリューショナリー・ロード』とか、最近で言えば『ゴーン・ガール』も含まれますが、要はジャンルとしては「夫婦モノ」なんです。
もっと言えば、夫婦にとっての「愛のカタチに関する新しいセオリー」を提示する映画とでも言いましょうか。

本作の作り手は、この夫婦の「カタチ」を否定するわけでも称賛するわけでもなく、その結論を導き出したあらゆる過程、つまり「時間」を優しく見つめ直し、夫婦にとっての「小史」として描いています。その平等な視線と精神こそ、マコトに素晴らしいと思った次第です。

ホーキング博士本人とレッドメイン&フェリたんのスリーショット。いい写真。
ところで、物語終盤、ホーキング博士の講演会が行われるシークエンスにて、非常に印象的なシーンがありました。
多くのオーディエンスが集まる中、学生の一人が机の上からペンを落としてしまいます。
それを見たホーキングは、車椅子から立ち上がり、自分がそのペンを拾い上げに行く…という想像をするんですよ。当然、彼の身体は動きません。

このシーンは、視覚的に彼の心情を描いた、映画的なカタルシスに満ちた素晴らしい構成であるのと同時に、大変ペーソスなシーンでもあります。
世界的に認められた天才だけれど、一人では落ちたペンすら拾うことが出来ません。
彼がまだ若かりし頃、落ちたペンを拾って机に戻す、というシークエンスが確かにありました。
それがもう、今の自分には一人では出来ない。そう、一人では。

実は『博士と彼女のセオリー』は、落ちたペンを拾ってくれるパートナーの大切さに気付く物語でもあります。

そして重要なのは、ペンも拾えぬ僕「だけど」ではなく、ペンも拾えぬ僕「だから」という結論が導かれている点です。
ペンも拾えぬ僕「だけど」、どうかずっとそばにいてほしい…という願いではなく、ペンも拾えぬ僕「だから」、僕と君は…さて、ホーキング博士が導き出したオトナな愛のカタチとは?

ここで述べている「ペン」というのは、何もモノホンのボールペンだとかシャープペンシルだとかを指しているのではありません。
それはつまり、人間が一人では乗り越えられない「困難」であったり「苦難」であったり、そういったパートナーと共に立ち向かうべき「障壁」を意味していると思います。

さて、今この文章を読まれている紳士淑女の皆さま。
果たしてあなたは、落ちた「ペン」を一人で拾うことが出来るでしょうか。
或いは、その「ペン」を拾ってくれる大切な人と出会うことが出来ているでしょうか。
どうか一人でも多くの皆さんが、ペンを落とすことを恐れませんように。




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