2015年3月29日日曜日

先輩、もう呑めません! 『神々のたそがれ』

『神々のたそがれ』(2013年/アレクセイ・ゲルマン監督)
【あらすじ】
とある惑星で神様になったんですけど、正直しんどいです…

構想35年、製作期間15年、上映時間177分、巨匠アレクセイ・ゲルマン監督によるトンデモ映画がついに上映!
大好きな作家兼ミュージシャンの町田康さんと中原昌也さん(偶然お二方とも同じ職業)のトークショー付き上映に参戦して参りました。

結論、ぐっちゃぐちゃ映画の大傑作でした。

何がぐちゃぐちゃって、もう画面に映るモノ全てがぐちゃぐちゃなんですよ。
雨はザーザー降ってるし、霧はモヤモヤ出てるし、地面は泥まみれだわ、血は出るわ、生卵割るわ、スープ飲むわ、唾吐きまくるわ、おしっこするわ…おいお前ら、きったねえよ!

もはや177分間、画面に映るありとあらゆる総てが異様にエネルギッシュな本作なのですが、私はとにかく撮影が凄まじいなと感じました。
いや、全く想像が出来ません、どうやって撮影したのか。

本作の撮影方法としましては、主人公の行動を追い駆け回る「架空の撮影クルー」のような視点でキャメラを回し続けているんです。
だから画面に映る人々は、時たま「カメラ目線」をかましてきます。(実に映画的な瞬間です)
やがて、その過程を通して、もはや本作がフィクションであることすら忘却してしまう感覚が到来。
観客はまるで、本当に異星のドキュメンタリーを見ているかのような、不思議な錯覚に陥るに至るのです。
文献を拝読すると、ゲルマン監督は役者の配置や動きを徹底的に指導したらしいのですが…いや、もはや演出の跡が全然見られないのですが…ってか分からん、何が演出で、何が芝居なのか。
もうね、きったない人たちが、いえーーーい!とダブル・ピースする勢いでキャメラに突進して来るんですよ(笑)
俺も俺もー!みたいな感じで、被写体の方から、どんどんキャメラに迫って来る。
コレ、もはや「動線」のハナシとか、そう言った通常の映画作りの概念では語れない撮影だったのではないかと思いまして。
画面上の凄まじき情報量も、溢れ出るエネルギーも前代未聞。
こんなパワーを生み出せるのは、世界中の映画史を眺めても、恐らくはゲルマン監督ただ一人でしょう。

余談ですが、私は本作をショット単位で見た際に、黒澤明の影響を感じざるを得ませんでした。
と言うのも、雨+ぬかるんだ地面+馬なんて公式を出されると、そりゃあイコール『七人の侍』やんけ!、と答えるしかありません。
弓矢がグサグサーって刺さってるのは、『蜘蛛巣城』の影響カシラ?なんて思ったりもしました。
実際、ゲルマン監督はキューブリックやタランティーノのことが大嫌いだったみたいですが(笑)、最も尊敬していた監督というのが黒澤明だったらしいです。
しかし、もはや世界のクロサワもってしても、そのコネクションを引き合いに容易に語ることがはばかれる、『神々のたそがれ』はそんな唯一無二の怪物フィルムでございます。

本作を鑑賞している際の感覚としましては、「新宿ゴールデン街で先輩と呑み始めたら、先輩がべろんべろんに酔っ払い始めて、めちゃくちゃ泥酔しながら暴れまくり、そのまま呑み屋のハシゴに無理やり付き合わされて、店先で更に頭のおかしな人たちと出会い、身体も脳も肝臓もカオスな領域へと達して、もはや意味不明な会話に意味不明に笑いつつ、朝までオールさせられる」状況とほぼ同じです。
って、なんだその状況!(笑)

これは皮肉でも何でも無くて、この映画は鑑賞後、とにっかく疲労感が半端ないんですよ(笑)
いや、もちろん退屈するような場面は一瞬も無かったですし、だからツマランとか、そういう次元のハナシをしているのではありません。
要するに、観る側も最大限のやる気と体力が必要とされるワケなんですね。
私もレッドブルをグビグビ飲みながら(笑)、全身全霊で本作と対峙しましたけれど、それ同等の、いやそれ以上の体験が出来たことは、ここに断言致します。

『神々のたそがれ』の地獄めぐりは、言い換えれば「酔っ払った先輩に無理やり連れ回されている感覚(by.中原昌也さん)」に本当に近いのですけれど、それでも呑み終った後「トンデモない一夜だったけど、トンデモなく楽しかったなぁ」という印象の方が強い、まさにそういう映画なんです。
とは言え、連れ回されてる間はずっとこう言ってましたけど。
「先輩、もう呑めません!」
「バーロウ!お楽しみはこれからだ!」と、どんどん酒を注いでくる先輩…殺す気かっ!
いや、ホントにそんな映画なんですって(笑)

本作に関しましては、既に様々な論評が提示されていますし、シネフィルな皆さまが大変鋭くタメになる評論をアチラコチラで書かれていらっしゃいます。
ただ、私が言いたいのは、本作はそうしたシネフィル・イメージから思われがちな、お高くとまった芸術映画などでは無いということです。
もちろん、観る人を選ぶ映画なのは確かですけれど、映画を体感する立場に徹する上では、ビギナーだろうがクラスタだろうがシネフィルだろうが、もはやそんなパーソナリティは関係ありません。
この映画を前にした誰しもが、その怪物級のエネルギーと向き合う義務がありますし、21世紀を生きる我々がこの怪物の襲来を避けることは、たぶん許されていないのです。
いや、絶対に勿体無いですって。二度と作られないであろう、こんなひっちゃかめっちゃかな映画とリアルタイムで遭遇出来るんですよ。
と言うか、そういう人生における「事件的」な遭遇が「映画」の醍醐味だと思うんですよね。
ということで、「これを見ずして映画を語るなかれ!」(by.蓮實重彦先生)

おやおや、テメェいつもよりテキストが短くは無いかね、と疑問符浮かべるそこのアナタ様…
うるさい!こんな映画、言語化できないっつーの!
今、中原昌也さん作曲のオリジナルCDを聴きながら、パンフレット一生懸命読んでるんだよ!
正直、この劇場用パンフレットが最も参考になる資料ですし、テキストや写真を含めた95ページにも及ぶ大ボリュームですので、鑑賞された方は、激しく購入を推薦致します。

最後に、本作を鑑賞して最も感じたことは、結局「映画」が一番強いんだ、ということでした。
文学、音楽、演劇、絵画…あらゆる芸術と呼ばれるモノの中で、ああ、映画に描けないモノは無いんだな、映画に限界なんて無いんだなって、確信を持つことが出来たんですよ。
そういう勇気を貰ったような気がします。
映画に関して論じる際に、いまや100万字の論文は不要となりました。
なぜなら、映画という最強の芸術、『神々のたそがれ』を提示すればいいのですから。

そして、映画界唯一の哀しみは、本作がゲルマン監督の遺作であり、このトンデモナイ怪物を創り出した魔術師は、もう21世紀を生きていないという、ただその一点のみであります。


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【Twitter ID : @Griko_Hasuichi

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