2015年7月27日月曜日

どうしておなかがへるのかな 『デッドリー・スポーン』

『デッドリー・スポーン』(1983年/ダグラス・マッケオン監督)
【あらすじ】
奴らは喰うためだけに生まれてきた!

突然ですが、皆さまは「おなかがへるうた」という童謡をご存知でしょうか。

どうして おなかが へるのかな
けんかをすると へるのかな
なかよししてても へるもんな
かあちゃん かあちゃん
おなかと せなかが くっつくぞ

「どうしておなかがへるのかな けんかをするとへるのかな」

まず、お腹が減ることに対して疑問を持つことは、非常に素晴らしい試みなのですが、「けんかをするとへる」という仮定は、ちょち唐突すぎやしないかと思う次第です。
そりゃ、喧嘩というものは体力を消耗するものです。ましてや、ここで述べている「けんか」が、拳と拳がぶつかり合う「殴り合い」の部類でしたら余計にお疲れになられるはずでしょう。
しかしながら、何も「けんか」をした時と限定して考えなくてもいいじゃないですか。
「けんか」をした時以外にだって、お腹は減るものですよ。
そもそも、どうして初めに「けんか」がお腹が減る原因だと考えたのでしょうか。
脳みそが一番初めに「それ喧嘩が原因じゃね?」という信号を送るだなんて。
この子はそんなによく喧嘩をするガキ大将だったのかしら。ジャ○アン?

「なかよくしててもへるもんなあ」

ほら、やっぱりそうじゃないの。よく考えてみれば分かることなんですよ。早とちりですよ。
何を今頃になって納得しているのですか。
というか、喧嘩するほど仲の良い友達がいて良かったね!大事にしなさいよ!

「かあちゃん かあちゃん おなかとせなかが くっつくぞ」

一体なにを言い出すのでしょうか。
いくら無理難題な疑問を抱えたからと言って、お母様に向かって「はらわたと背中の皮がくっつくぞい!」なんて言ってはいけません。
私はその子のお母様ではありませんけれど、だいぶ心配になりました。
いくら子どもだからと言って、お母様に心配かけちゃいけません!苦労をかけちゃいけません!親孝行しなさい!
『デッドリースポーン』のモンスターなんて、「どうしておなかがへるのかな」ということに対して疑問にも思いませんし、ましてや親御さんに心配なんてかけません!
『デッドリースポーン』みたいなたくましい子どもになってください!

ということで(どういうことで)、今回は『デッドリースポーン』について徒然なるままに書きつづります。
本作の特筆すべき点は、モンスターの最高にグロテスクなデザインだと思います。
大きく突き出た3つの頭には目がなく、がばーっと開いた口には鋭い牙がびっしりです。
文字通り食欲の塊で、とにかく喰って喰って喰いまくります。しかもものすごい繁殖力で増えまくります。
ワオ、なんて気持ち悪いのでしょう。でもその気持ち悪いほどの暴れっぷりが豪快で素敵です。
このモンスターのデザインが強烈で、今でも一部のファンからカルト的な人気があるらしいです。
実はあまりの出来の良さに『宇宙要塞からの脱出』(86年)という作品でそのままデザインをパクられたこともあります。
(ちなみにこの『宇宙要塞からの脱出』という映画は、『メタルストーム』の衣装とか『宇宙の七人』の宇宙船とか、堂々といろいろパクっていて楽しい映画です)

モンスターの暴れっぷりに反比例して、襲われる人間の方はマヌケで情けなくておバカです。
ぎゃーぎゃーと悲鳴をあげて、逃げ回っているうちにムシャムシャと食べられてしまいます。
容赦なく襲い掛かるモンスターに、何もすることができない人間たち……
ところが、そんな中でホラー映画好きのチャールズくんが立ち上がります。
彼は今まで観てきたホラー映画の知識を生かして、モンスター退治のために勇気と知恵を振り絞るのです。
これだからホラー映画を観るのはやめられません。

さて、お話をモンスターのデザインに戻しましょう。
まあ、あれですよ、どう見ても「チ〇コ」なわけです。
「い、言われてみれば……」なんて思ったそこのあなた、ホントは言われる前から分かってたくせに。
「おれには天使に見える」なんて言い出す奴がおりましたら、それこそお腹が減るまで殴ってやります。

(以下、「チ〇コ」と表記すると「〇」の中に「ン」を入れれば良いのか「ョ」を入れれば良いのか迷う方が続出すると思いますので、これより先は、男性の下半身から生えております突起物のことを「ザルドス」と呼ぶことにします)

しかし、『デッドリースポーン』のモンスターが「ザルドス」を思い起こさせる造形なのは、ちゃんとした理由があると思うのです。
『デッドリースポーン』の原題は『THE RETURN OF THE ALIEN'S:DEADLY SPAWN』というタイトルらしくて、つまるところ『エイリアン』(79年)のバッタもんなんですね。
『エイリアン』の大ヒットにより、たくさんの愛すべきバッタもんが産声を上げてきましたが、恐らくこの『デッドリースポーン』もその一つです。
そして、この映画がバッタもんしたのは、『エイリアン』におけるエイリアンたちのデザインなのではないでしょうか。
『エイリアン』でエイリアンのデザインを担当したH・R・ギーガーは、随所に「性器」をモチーフとしたデザインを施しています。
ビックチャップ(頭が長くてノッポな宇宙人)なんかは、もろに「ザルドス」を意識していることが分かります。
つまり「ザルドス愛」です。

では、『デッドリースポーン』のモンスターさんを、今一度じっくりとご覧になってみてください。


どうでしょう、ちゃんと「ザルドス愛」が感じられますよね。
色合い的に言えば、『エイリアン』でジョン・ハートのお腹をぶち破るチェストバスターくんに似てなくもないかもしれません。
でも、チェストバスターくんはすごく可愛いですが、『デッドリースポーン』のモンスターはやっぱり気持ち悪いです。可愛くはないです。
ということで、『デッドリースポーン』のモンスターが「ザルドス」っぽい、ちゃんとした理由でした。
だいぶちゃんとしてると思います。

「どうしておなかがへるのかな」
そんなことは考えずに、ただ食欲に身を任せて食べていればいいのです。
食欲=性欲。そう、ザルドスが暴れるがままに、喰えばいいのじゃい!
『デッドリースポーン』は「食」の大切さを教えてくれる素晴らしい作品でした。
ザルドスばんざい!

……嗚呼、血迷った。
血迷ってオティンティーンの記事を書いてしまっているではないかあああ!
じょ、女子から嫌われるブログにはしたくないんだよぉぉ(笑)


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2015年7月25日土曜日

恋愛は訳せない 『軽蔑』

『軽蔑』(1963年/ジャン=リュック・ゴダール監督)
【あらすじ】
あなたを軽蔑するわ!……って、なんで?!

「君もチネチッタに行くかい?」
「ええ……でもその前に、わたしのくるぶし好き?」
「ああ」
「膝は?」
「好きだよ」
「太ももは?」
「もちろん」
「お尻は?オッパイは?乳首とオッパイならどっちが好き?」
「……」

作家のポール(ミシェル・ピッコリ)は妻で女優のカミーユ(ブリジット・バルドー)を伴い、アメリカ人プロデューサー、ジェレミー・プロコシュ(ジャック・パランス)との契約にローマへと向かいます。
金と女にしか興味のない俗物プロコシュはいけ好かない野郎でしたが、皮肉にも金と女(=妻)のため、ポールはすでに撮影に入っている映画のシナリオ直しを引き受けるのでした……

アルベルト・モラヴィアの長編小説を映画化したゴダール最大の大作です。
とは言え、そこはゴダール。
中身はチマチマとした心理ドラマで、ビッグバジェット感は皆無です。
製作のジョゼフ・F・レヴィンは試写を見て、バルドーの裸のために金を出したのに!と怒り出しまして、ゴダールにもっと裸を見せろと命じたそうな。(プロコシュのモデルがレヴィンであることは明らかです)
それで冒頭のベッドでイチャつくふたりのシーンが付け加えられることになったのですが、バルドーを呼び戻すことは不可能で、やむを得ずゴダールはボディダブル(ソックリさんによる吹替え)を使い、赤や青のフィルターをかけて誤魔化したんですね。
しかし、イタリアではフィルターなしのものがそのまま公開され、激怒したゴダールは自分の名前をクレジットから外すよう要求したと言います。
ちなみに、これは個人的な趣味かも知れませんけれど、ボディダブルの方が本物よりもスタイルいいと思います(笑)


さて、私はあるときまで、本作を女性の面倒さを描いた映画だと解釈していました。
それには、ゴダールがアンナ・カリーナと難しい局面を迎えていたということもあります。
あるときとはいつか?
それは山田宏一さんの『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』を読んだときです。
本の中で、撮影中ゴダールがバルドーの歩き方にダメを出し続けたというエピソードが出て来ます。
どこが悪いのかバルドーが訊ねると、ゴダールはこう答えました。
「君の歩き方がアンナ・カリーナに似ていないからだよ」
「……」
男性の私がフォロー出来ない、オトコの何たるかがその台詞には宿っているとは思いませぬか。
端的に言うと、バカ。
バルドーが呆れ返ったのは言うまでもありません。

プロコシュには愛人と思しき美人通訳(ジョルジア・モル)がいます。
彼が英語しか話せないからですが、通訳のお陰で会話は通じ、結果はどうあれ交渉は進むのです。
が、ポールとカーミラという男女の間には、言葉の意味を訳してくれる者がいません。
当たり前なんですけれど。
『軽蔑』が描いているのは、きっとそのことなのでしょう。

というワケで、オンナ語通訳者、急募!

余計なお世話だバカヤロウな追伸
ゴダールが敬愛するドイツの映画監督、フリッツ・ラングが本人役で出演しているのは有名なハナシ。ポールがシナリオ直しを依頼されるのも「ラングの新作が難解すぎてワカンネェー!」という理由からなんですよね(笑) ラングはプロコシュの横暴ぶりを、ナチス・ドイツの宣伝相ゲッペルスのようだと揶揄してぷんすか。ゴダールっぽい~。

【関連記事】
あなたもビッチ『(500)日のサマー』
本作における「ビッチ」の意味とは?もしかしてトムはオンナなんじゃないのか?など、本作が誰視点のハナシなのかについて書いています。オトコとオンナって、面倒だねホント!





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2015年7月24日金曜日

あなたもビッチ 『(500)日のサマー』

『(500)日のサマー』(2009年/マーク・ウェブ監督)
【あらすじ】
サマーちゃんと付き合っていた500日を回想します。

時間軸は混乱し、トム(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)の記憶の中だけで語られるこの物語に、まず違和感を覚えたのは、「僕は君のなんなのさ!」という台詞が登場した時でした。
これってさあ、女性の台詞ダヨネ?
いや、男性が絶対に言わないと述べたいワケではなくて。
ただ、少なくとも私は言ったことも思ったこともありませんし、その台詞をはじめて聞いたのは女性からでしたので(笑)
「アタシとアンタの関係ってさあ、一体なんじゃらほい?」
その言葉を初めて聞いたとき、うお! これは面倒くさい! と思ったのは今でも忘れられません。
彼女のことをそういう目で見たことは一度もなかったから。
遊び友だち
飲み友だち
単なる友だち
そんな私は、やはりビッチなのでしょうか?

さて、極論を提言。
もしかするとトムは、女性なのではないのでしょうか?
トムとサマー(ズーイー・デシャネル)はシド&ナンシーについてこんなやり取りをします。
「今のわたしたちってなんかシド&ナンシーみたい」
「シドは何度もナンシーを刺したけど、俺はそんなことしないよ」
「なに言ってんの? シドはわたしよ

そう考えると、この映画がボンクラ野郎だけではなく、意外と女子受けしていることも理解出来ませんか。
彼女たちの感想を聞けば分かるのですけれど、女子もトムの視点で物語を観ていることが圧倒的に多いのです。
そして、サマーをビッチと言っているんですよね。

劇中、ヘコんだトムに映画は見えず、妄想がスクリーンに映し出されます。
ベルイマン風のその妄想映画の中で、トムは天使とチェスを指しています。
これでどうだ!
得意そうなトムを、天使はせせら笑う。
「次は勝てるといいね、ビッチ!
ビッチとは、普通は女です。

本作はオトコの気持ちを描いただけの物語ではないでしょう。
マーク・ウェブは確信犯的に、トムをヒ弱なナードとして描いています。
Hした翌朝、男は晴れがましい気分になるのだ!(突然ミュージカルになって歌い踊り、終いには幸せの青い鳥がアニメーションで飛んで来る・笑)、と描かれますが、それはそういうイメージで女子がならないとは限りません。
男女ともがトムにもサマーにもなる可能性を秘めているのであり、だからこそ、本作は傑作なのだと思う次第です。

500日後、トムの前に現れたサマーは、なんとトムになっていた!
わたし、運命的な出会いをしたの!
逆に言えば、明日のあなたがビッチじゃないとは言い切れないのです。

ところで、ふたりを結びつけたアイテムに音楽があります。
「私もザ・スミス好きよ」この一言から、ふたりの500日は始まります。
そして、ビートルズに対する意見の食い違いから、ふたりはすれ違い始めるのです。
つまり、ふたりが恋しているときは、いつも音楽が流れています。
恋に夢中の時も、恋が終焉を迎えた時も、人は必ず音楽を聴いているんですね。
『(500)日のサマー』は、ポピュラーミュージックが総ての恋する人々にとっての救済であることを信仰として描いてみせます。
さすがはミュージック・ビデオ出身のマーク・ウェブ監督。
ということで、サウンドトラックも必聴!


【関連記事】
恋愛は訳せない『軽蔑』
ゴダールにとっての「オンナの面倒さ」を描いた作品かと思っていましたが、実は……な記事を書いています。なーんでいつだって、軽蔑するのは「オンナ側」なのか? そんなの簡単。オトコがバーロウだからです。ってなワケで、ゴダールもバーロウでした。



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2015年7月23日木曜日

ヒューイ・ルイスはお好き? 『アメリカン・サイコ』

『アメリカン・サイコ』(2000年/メアリー・ハロン監督)
【あらすじ】
ヒューイ・ルイスは聴かないだって? ふざけんな、ぶっ殺す!

ジェネレーションXを代表する作家ブレット・イーストン・エリスによって書かれた原作小説は、持ち込まれた出版社があまりの残虐度に恐れをなして出版を拒否した、という曰く付きのシロモノです。(その後、91年に別の出版社から発表されました)
故に、映画化も困難を極めたのですが、音楽ジャーナリスト出身の監督メアリー・ハロンは、原作から可能な限り残酷描写を取り除き、風刺的であることに努めたらしいです。

結果、出来上がったのは、爆笑必至、ブラックコメディの傑作。
80年代後半のバブリーな状態を、空虚なカラッポの世界として見事に描き出し、それに絶え切れず、脳内が野性の雄叫びをあげて崩壊する主人公、パトリック・ベイトマン(クリスチャン・ベイル)の勇姿!腹かかえて笑うってモンですよ。

人間が野性であることの証明、それは人殺しだ!
ベイトマンが『悪魔のいけにえ』(74年/トビー・フーパー)を観ながら筋トレをしているのは、単なる偶然ではありません。
『悪魔のいけにえ』がフィジカルな痛みを生々しく描き、絶えず彼を触発するからです。
だから彼は、チェーンソーを持って娼婦を追い回しちゃうんですね(笑)
ちなみに、原作のベイトマンは『ボディ・ダブル』(84年/ブライアン・デ・パルマ)を37回もレンタルしたという映画バカなエピソードを持っておりまして、それ故にチェーンソーを使用しています。


さて、映画の重要なファクターとして名刺があります。
紙質や書体にこだわる名刺自慢ばかりが取り沙汰されますが、最大の風刺は、誰もが肝心の名前自体にはまるで関心がないこと。
自分にしか興味がなく、同じクラブに通い挨拶する仲なのに相手の名前を把握していないのです。

クライマックスで、ベイトマンの弁護士ハロルド(スティーヴン・ボガール)は10日前にポール(ジャレッド・レト)と食事をしたと言います。
でも、俺は彼を殺したんだよ!
さて、どちらが本当でしょうか?
その前に、ハロルドはベイトマンの名前を覚えていないのですが、最初の方でベイトマン自身が、ポールは自分と服のセンスから行き付けの美容院まで同じであり、見た目はほとんど変わらないと独白しています。
と言うことは、ハロルドが食事を共にしたのはベイトマンだという可能性が……ってそれはないか。
いや、でもこの映画の全てが確信犯的にカラッポであり、これはこうだと断言出来るところなど一つも無いんですよね。
そもそも、ポールなんて実在しているのか?
そこからして妄想なのではないのか?
劇中でジャレッド・レト扮するポールはちゃんと出て来ますが、彼は実のところベイトマンで、二人ともベイトマン自身なのではないのか?
何故なら、同じルックスならば、違う証拠は名刺しかないんですよ。
それも、カラッポの。

そんなカラッポのアタシたちに残された術。
欺瞞まみれの、ストレスまみれの、腐った世の中を生き延びるための術。
それこそが、妄想なのであります。
さあ、今夜も布団に入って、あの野郎をぶっ殺そうぜ!

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2015年7月20日月曜日

真っ白なスクリーンまで 『リアル鬼ごっこ』

『リアル鬼ごっこ』(2015年/園子温監督)
【あらすじ】
追いかけて来るので逃げます。

ここまで、自分の感想と世間の反応がかけ離れているのは、人生で初かもしれない。
それほどに、私は『リアル鬼ごっこ』という映画を、甚だしき傑作だと感じました。

私が散見する限り、やれハナシの意味が分からないだの、やれ不条理過ぎてツマランだの、結末で萎えたやら、ただグロいだけの園子温ファン向け作品だの、皆さん異常に白熱していらっしゃいます。

もちろん、大いに結構です。

ただ単純に、この作品が、私にとっては「大変面白かった」作品であるということを、どうしても自己表明としてアゲインストしておきたいと思い立つに至りました。
これから私が延々書き連ねる駄文は、そういう意味合いとしてのアウトプットです。

ということで、お金も貰っていないのに徹底的に擁護しますよ!(笑)

【最上級な女優賛歌としての『リアル鬼ごっこ』】

まず、結論から言えば、『リアル鬼ごっこ』は「女優にとって"役を演じること"とは何か?」ということを突き詰めた作品だと思いました。
チラホラと、園さん流の女性賛歌という声も見聞きするのですが、それよりは「女優論」に関する作品だという印象の方が強いです。(ちなみに、女性賛歌としては『恋の罪』の方が色濃いかなと)

故に、女性でまみれた世界観も、生命力の儚さと共にきらめきが倍増したヴィジュアルに満ちていて、園さん的「女の園」と言いますか、可憐で素晴らしかったと思います。
尚且つ、そこでゴミくずの如く命が「遊ばれていく」描写も美しく、やはり映画の中の女性は死んでナンボだと改めて感じました(語弊を招く文章)

【死からの逃走ではなく、死に向かう疾走】

映画の中で女性たちがバンバン死んでいくのは、裏を返せば、『リアル鬼ごっこ』の主人公たちが、「死」から逃れるべく「生」を激走すると言うよりも、結果的に「死」に向かって「生きてみせる」=「走り抜けてみせる」というテーマを描いているように感じるのです。

華々しく死ぬことによって、逆説的に「生」を想起させるという感覚は、園さんが2002年に監督した『自殺サークル』においても問い続けていた主題です。
『リアル鬼ごっこ』の冒頭で描かれるバス真っ二つのスプラッター描写が、何処と無く『自殺サークル』冒頭の女子高生集団飛び込み自殺と重なるのは、果たして偶然なのでしょうか。
私は確信犯だと思っています。

つまるところ、『リアル鬼ごっこ』はちょち『自殺サークル』の延長線上に位置する作品であり、実質的な続編である『紀子の食卓』(05年)よりもスプラッター要素を含んでいるため、より寄り添った作品ではないかと。
ま、『自殺サークル』だって賛否両論、と言うかピばっかりですが(笑)、これまた私は大変好きな作品でありまして。そんなヤツの戯言は信用ならねえよ!と、たった今キレちゃった方は、ブラウザバックを推薦致します。
『自殺サークル』との関連性について、詳しくは後ほど。

(加えて、本編の内容と実は全然関係が無かった予告編では、子どもがJKの数を減らします云々のナレーションをしていますが、ガキんちょの声は反射的に『自殺サークル』を思い起こさせて仕方ありませんでした。ちなみに、予告編のハッタリに関しても私は大変好意的で、映画なんて期待を裏切ってもらい、心をえぐってもらうために劇場へ足を運んでいるので大いに結構です。東宝東和イズムで、これくらいは「釣って」いただかないと!)

【原作批評という病】

ところで、原作ファンの方々で、こんなの「リアル」でも「鬼ごっこ」でも何でもナイ!と憤慨している方がいらっしゃいました。
確かに、原作を愛読している方からすれば、原作とは全く異なるプロットに嫌悪感を抱くのは至極マットウなことでしょう。そりゃ原作ファンからは総スカンを食らうのも分かります。
しかしながら私は、園さんのこのアプローチを大いに支持します。これこそ、作家の姿勢ですよ。断じて間違っていません。
ちょっとハナシが横道に逸れますけれど、私がありとあらゆる原作映画化モノに対して抱いている持論がありましてですね。
とにかく、原作と映画を同じ天秤にかけて比べるのはヤメマショーヨ、と思っていまして。
もっと原作ファンに気を遣うべきだと言う方もいらっしゃいますけれど、その前に、映画ファンにこそ気を遣うべきなんですよ。
だって、映画なんですから。

原作は累計発行部数200万部のベストセラー小説、そして園子温リブート版はタイトルのみから想起した完全オリジナル、うん、最高にキュートなことだと思います。

そももそ私は、元々あの支離滅裂な原作のナニが面白いのか全く理解が出来ず、どうしてこんなにも映画になったりドラマになったりするのか不思議で仕方ない人間でして。と言うか、あの著者の作品で面白いと思ったホンが一冊も無く(笑)、つまるところ何が言いたいのかと言いますと、私は一片たりとも、あの原作の擁護派では無いということです。(やっべー、怒って追いかけたりしないでくださいよ・笑)

【園版『リアル鬼ごっこ』の「リアル」】

園版『リアル鬼ごっこ』の指す「リアル」は、現実と虚構という意味合いでの「リアル」として描かれます。原作ファンの方は激怒されていらっしゃいますが、いやはや、このタイトル以外考えられないでしょ。超絶ピッタリだと思います。

原作では「もしも、捕まったら殺される、本当に生き死にに関わる鬼ごっこをしたら……」という意味の「リアル」ですが、本作においては「どこまでが現実なのか、或いは夢なのか分からない」という悪夢的円環構造としての「リアル」が描かれています。
鬼ごっこという子どもの遊びが人間の命に関わることと、果たして自分が今経験している世界は夢かウツツなのかという感情は、全く異なるものです。
なので、前述した原作ファンの方が言う「リアル」ではないというのは、実は確信犯的、明確なことなんです。同じタイトルですけれど、別の側面、別の意味合いとしてのハナシなワケですね。(ま、異なっているからこそ激怒されているとは思うのですけれど)

ちなみに、これは余談ですが、園版『リアル鬼ごっこ』における「リアル」の扱われ方というのは、園さんが最も尊敬している寺山修司の監督作品『田園に死す』に類似しているかと思うのですが……私の深読みですかね。にしても、あらゆる媒体のどのヒョーロンにも、テラヤマの文字はありませんでした。この題材で、監督が園子温ですよ? ライターの皆さん金貰ってんでしょ、しっかりしてくれよ! こっちは一銭も貰ってないんだから!(笑)

【通過儀礼としての擬似的な死】

この「リアル」の境界線が物語の推進力になっているかと思われますし、故に本作は当たり前ですが「映画」なので、ここで描かれている「リアル」は総て「リアル」では無い、ということでもあります。(頭が痛くなる文章……)

要するに、「リアル」だと信じているのは劇中のミツコたちのみであり、観客はもちろん、これがフィクション=虚構であるということを前提に物語を追い続けていきます。
つまりは、この物語で描かれている死とは「リアル」ではなく、「擬似的」な死の羅列として提示され続けるのです。

では、擬似的な死とは何か? なぜ、死はグロテスクで無ければならないのか?

園さんは、こうした少女たちの死を、ある種の「通過儀礼」として描いているように感じました。
何のための通過儀礼かと言えば、それはオトナになるための経験に他なりません。
ここまでグロテスクな通過儀礼を経験しなくてはオトナになることが出来ない、現代日本の異常なまでの歪さが暴かれます。
と言うか、これこそが『自殺サークル』の主題であり、『紀子の食卓』のテーマであったワケですね。残酷な自殺描写や擬似家族の崩壊。園さんは両作において、ソレを描き続けていました。

で、『リアル鬼ごっこ』は、「擬似的な死を持って自我を奪還するまでの過程」を描いた作品とも読み取れるのですが、恐らく、今回の着地点はソコでは無いと思うのです。

(以下、結末部分に言及するため「ネタバレあり」の文章となります。私個人としましては、ここまで世間の声と乖離しているのは、むしろワタシ側に趣味嗜好の問題があるのでしょうけれど、それでも、凄まじく好きな作品ですし、これから何度も鑑賞していきたい映画です。そして、この映画を愛していることを、大変誇りに思います。これから鑑賞される方は、是非とも「プログラム・ピクチャー」という映画の存在だけは既知して劇場に足を運んでいただきたい次第です。)


【少女たちは「何」から逃げるのか?】

さて、園版『リアル鬼ごっこ』 における「鬼」とは何なのでしょうか。
私は「リアル」の意味を「夢かウツツか定かではない境界線としてのフィクションライン」だと仮定しました。では、そのような世界で繰り広げられる「鬼ごっこ」とは一体何を表しているのでしょうか。

……なんてことを考える前に、ちょち原点に帰ってみましょう。
そう、そもそもの鬼ごっこのルール。
 ま、子どもだった全ての皆さんはご承知の通り、「メンバーからオニ(親)を一人決め、それ以外のメンバー(子)は決められた時間内に逃げ、オニが子に触ればオニが交代し、遊びが続く(Wikipediaより引用)」というのがルールです。

はい、オサライしてみるとよく分かります。
鬼ごっこというのは、そもそも鬼にならないため=鬼になりたくないから逃げる遊戯なワケです。
要するに、「なりたくない自分」から逃げているんですよね。怖いから。
それって、『リアル鬼ごっこ』のミツコちゃんも、果たして同じなのではないでしょうか。
ミツコが逃げるのは、得体の知れない「何か」の存在からではありません。
追いかけて来る「自分自身」から逃げているのです。

夢かウツツか定かでは無い世界の中で、見えない自分自身から逃走するミツコたち。
複数形なのは、ミツコはケイコであり、いづみでもあるから。
ミツコを演じるトリンドル玲奈さんの顔が篠田麻里子さんの顔に変貌した瞬間、身体中に電撃が走りました。
だって、顔はケイコでも、心はミツコのままなんだから。
それはケイコからいづみへと変貌しても同じこと。
まるで、ミツコという自我が、ケイコやいづみという空っぽの容器に移し替えられたような感覚です。
いや、「映し替えられた」とでも言いましょうか。
姿形や名前が異なる「全く別の人間」であるにも関わらず、ミツコの自我を保ったままのケイコといづみは、おぼつかない表情のまま、状況が理解できずに右往左往します。

……ん? ちょっと待ってください。これって、ナニカに似てません?
女優に。
それも、別の人間に成りきることが出来ない=自我を保ったままの女優に。
より簡潔に言えば、芝居が、演技が下手な女優のことではないのでしょうか。

ここでようやく、この映画が「女優」に関するハナシだという思考にシフトチェンジしていきます。

そう、園版『リアル鬼ごっこ』は、映画内で経験させられる擬似的な死を通して、少女が「女優」になるまでの過程を描いた物語なのではないのか、と。
そして、彼女を追いかけるのは「彼女自身」の自我であり、自我を殺害することによって初めて「女優」と化す瞬間を捉えた、極めて感動的な物語であるのではないでしょうか。
言うなれば、スプラッター・アクトレス・ジャーニー!(なんじゃそりゃ)

【「ミツコ」たちと園子温の鬼ごっこ】

ミツコ」とは、園さんの映画に幾度と無く登場する名前です。本人の談によれば、小学生の頃に好きだった初恋の女の子の名前らしいです。
ケイコ」は園さんのかつての恋人だった女性の名前で、1997年に発表した『桂子ですけど』は、当時の恋人だった鈴木桂子さんを撮った映画です。
いづみ」は園さんの母親の名前であり、『恋の罪』の神楽坂恵さんの役名であり、彼女の本名でもあります。

「リアル」な世界に生きる3人の女性を、姿も形も違う、全く別の女優に「演じさせる」。
まるで、その行為自体を視覚化した今回の『リアル鬼ごっこ』のプロットは、実に園子温の作家性らしく、パーソナルな題材だと思います。

もしかすると、園さん自身は、ミツコたちの呪縛から逃れられていないのではないでしょうか。
だから何度も、ミツコたちを女優たちに演じさせ、命を吹き込ませます。
それは逃れられないから描く、或いは逃れたいから描く、という屈折した愛情であり、作家にとっては救済でもあります。
何が言いたいのかと言えば、園さんも逃げてるんですよ。ミツコたちとの鬼ごっこが、まだ終わっていないんです。
いや、もしかすると永遠に辿り着けないと理解していながらも、何とかそこに近付こうと「向かっている」のかもしれませんが。芸術の力を信じるとは、そういうことです。

【経験していない「経験」を見る】

いづみに姿を変えたミツコは、マラソン仲間たちと走りながら、次第に小学生の頃の運動会の記憶を思い出します。そして、走ることの喜びと希望を見出すのです。そんな経験していないのに。
このシークエンスで描かれた「幼少期のいづみの運動会」というヴィジョンは、「いづみであるミツコ」の脳内には存在していません。故に「リアル」ではない、想像、妄想のヴィジョンです。
では、何故こんなヴィジョンをわざわざ挿入したのかと言えば、それこそ、やはり本作が女優についての映画たる由縁。
コレ、女優が実践していることと同じですよね。
「わたしが演じるこの人物は、こんなことが起きる前にどんなことを経験していたのだろう? そして、一体どんな人間だったのだろう?」経験してもいない過去を回想することによって、役柄をより深みの増したキャラクターにすることは、恐らくほとんどの女優が行うメソッドです。
つまりは、経験してもいない記憶が刷り込まれて架空の人物と同化していく過程を、あのマラソンのシークエンスでは「役作り」のメタファーとして描いたのだと思いました。

【スタニスラフスキー理論は「リアル鬼ごっこ」】

ええー、もしも万が一、現役の役者の方がリアルタイムにこの駄文をお読みになられているのであれば、恐らくは「スタニスラフスキー」という言葉が脳内に出現したかと思われます。
演劇をしたことのある人ならば知らない人はいないはずの「スタニスラフスキー理論」ですが、『リアル鬼ごっこ』はこのメソッド演技に関するハナシだと読解できなくもありません。
ま、どんな理論かと申しますと、超簡単に言えば、ロシアのスタニスラフスキーさんが定言した「役を演じるのではなく、その人になっちゃえ!」という思考のことです。
要は、役者がその人自身に成り切ってしまえば、その人自身なのだから、全ての台詞や行動がより自然な演技になる、というもの。俗に言う「憑依型」という演技法で、マーロン・ブランドやロバート・デ・ニーロ、最近だとダニエル・デイ・ルイスなんかが有名なハリウッドのメソッド俳優ですね。

で、『リアル鬼ごっこ』は「別の人間になる」ということに重きを置いたプロットなので、当然この理論を想起させる構造になっているのは確かです。
なるほど、マーロン・ブランドもデ・ニーロもデイ・ルイスもやってるワケですね。
自身の自我と、役柄との「リアル鬼ごっこ」を。
本作は、そういう主観を視覚化したエポックな作品でもあります。

また、余談ですけれど、女優が現実と虚構の狭間で漂流し続けるハナシと言えば、我が愛しのデヴィッド・リンチ監督による『マルホランド・ドライブ』(01年)や『インランド・エンパイア』(07年)などが既存しています。
これらも、主人公が自身と役柄の区別が不能となる悪夢的な「女優論」に関する作品でした。
尚且つ、客観でストーリーを追いかけると何が何だかサッパリなのも両作の特徴。
『リアル鬼ごっこ』も、客観でストーリーを追いかけるのではなく、あくまでも「ミツコ」の主観として推進していることを意識してみると、より理解しやすくなるはずです。

【監督のメタファーとしてのアキ】

さらに付け加えると、ミツコたちが混乱した時には、必ず桜井ユキさん演じる「アキ」という存在が登場します。
バスでの大スプラッターから生き延びたミツコは、知らぬ間に女子高へと登校をしています……ってナニコレ!どーなってんの!とパニックになるミツコに対して「あなたはここの高校にずっと通っていたんだよ」と説明するアキ。
それでも風に怯え続けるミツコに対して、窓を開けて風に当たってみせるアキ。「いい風だよ、ミツコも当たってごらん」と促すも、恐怖するミツコ。そこでアキが半ば強引にミツコの手を窓からヒョイと出させると……き、気持ちいい……ミツコにとって、数分前まで「死」を運んでいた風が、アキの行動によって「生」を実感させる存在へと変わったのです。

これって……「演出」じゃないですか。
何故なら、アキは女優に手を差し伸べる監督なのだから。
周囲の友人たちから「ミツコとアキってレズカップルみたい」と揶揄されるシーンがありますが、他者とは異なるミツコに対するアキの異様なベタ付きぶりも、まるで女優と監督の関係性を感じさせます。
アキがミツコにクラスや座席を指定するのも、彼女だけが全てのシナリオを知っているのも、全てが確信犯のはずです。

監督のメタファーであるアキは、終盤、いづみの姿をしたミツコに、ある「演出」を施します。
「わたしはミツコって言って! 何度も言い続けて!」
ここまで自我との別離を描いてきたハナシにも関わらず、ここでアキはミツコの自我を再び呼び覚まそうと試みるのです。
と言うよりは、ケイコ、いづみを「演じた」ミツコを見かねて、いよいよ「演出」として最終手段に乗り出すんですね。
要するに、ミツコを自分自身と向き合わさせるために、彼女が「自分」から逃げることを阻止するんです。
名前を復唱させるのは、モチロンそういう意図のため。
コレ、矛盾しているようですが、恐怖し、逃げ続けていた自分自身と対峙する、ようやく触れるフェーズが到来したことを意味しているかと思います。
より簡潔に言えば、「自分殺し」の段階に監督が送り込んだとでも言いましょうか。
「いっちょ本当の自分をぶっ殺して来い! テメェが女優ならばな!」
「監督」の、そして「女優」の暴走によって、「映画」は予定調和から脱却を開始します。

「わたしは……ミツコ!!」
ミツコの中の自我は、やがては本来の自分を取り戻し、文字通り、監督を切り裂いて=演出の範囲内から抜け出し、その先に輝く光の中へと歩き始めます。
「光」とは何か。
我々、映画ファンが最もよく目にしている光があるじゃないですか。
まさしく、それは映写機の、つまりは「映画」の光なのです。

【映画のディストピアとの対峙、そして自分との対峙】

映画の光に飛び込んでみたものの、そこで待っていたのは地獄のような光景でした。
だって、むさいオトコばっかりですものー。
男まみれの世界観というのは、まあ『マッド・マックス』などもそうですけれど、何処となくディストピアな感覚を持ち合わせていますよね。園さん的には、今のママじゃ数百年後の映画界はこんなんなってまうぞ!という叫びなのかもしれませんし(笑)
女子校出身の女の子が男子校に迷い込んでしまったかのような表情を見せるミツコは、次第に自分たちがゲーム=ヴァーチャルの世界で「遊ばれていた」ことを知ります。

この展開に意外性も驚きも全く無い、と怒っていらっしゃる方もいましたが、散々フィクション=虚構側を描いてきた物語が、最終的にその境界線を飛び越えてノンフィクション=現実側で決着を着けようと試みるのは、大変エモーショナルな展開だと思いますし、必然的なことだと感じます。
特にドンデン返し的なサプライズやカタルシスが皆無なのは、別にコレが、そもそもドンデン返しでもサプライズでもないということを忘れないでいただきたいです。

本当のサプライズである、斎藤工くん(!)の登場によって、ミツコは新たな光の中へと進んで行きます。
洞窟の外へと歩むミツコの姿が徐々にフェードアウトしていき、雪が降る中で目を閉じた彼女の姿がフェードインします。
画として映し出されるのは、光の中へと消えるミツコが、雪景色に佇む彼女の、丁度心臓の辺りに位置している映像なのです。
その編集は、まるでミツコが彼女自身の心の中へと入っていくような演出になっています。
この感動的なカットを鑑賞出来ただけでも、私はこの映画を観た価値があったと信じています。

【廃墟のような邦画界】

園さんの映画で事あるごとに登場する、廃墟。
このロケーションが意味しているのは、恐らくは心の空虚さや空っぽさソノモノなのでしょうけれど、『リアル鬼ごっこ』というフィクションラインが舞台の作品内では、果たしてどうでしょうか。
確かに、前述したように、ミツコは彼女自身の心の中へと侵入して行きます。だからこそ、あの廃墟が心そのものだと言う考えには、とても合点が合うのです。
しかし私は、あの廃墟こそ「現代日本映画界の縮図」のように感じました。

マネキンのように型にハメられた少女たちは、ゴリ押しされ続けるタレントや役者のようにも見えます。あの穴の数だけ事務所があるのでしょうし、或いは、あの穴の数だけテレビ屋がいるのでしょうし。そして、「型にハマった」芝居しか出来ない役者たちのメタファーなのでは、とも思いました。

このシークエンスで発覚するのは、ミツコとその仲間たちがガラスケースの中に保存されており、彼女たちをゲーム内のキャラクターとして使用していた、ということ。
「ネームバリューを重視して同じ役者でしか遊ばなくなった」、現在の邦画界にも類似しています。
しかも、そこで斎藤工くんは『グランド・セフト・オートⅤ』よろしく、主人公たち3人を交代しながらゲームとして遊んでいたワケですね。(『グラセフ』のプロットをそのまま映像化したのも、恐らくは邦画史上初です)

老いぼれた斎藤工くんは誰なのかと言うと、一見すると監督や観客のメタファーかと思いがちなのですが、私は彼、プロデューサーなのではないかと思いました。
とは言え、特にプロデューサーの皆さんを非難しているつもりは一切ありませんで(笑)、要はテレビ資本映画における、イメージとしての悪漢プロデューサーと言いますか。あくまでも、園さんの中でのイメージとして、ですが。

そんな悪漢プロデューサーが、俺の夢はコレだ!と言い放ったのが……ミツコちゃん、君とエッチすることだ!
ぎゃふーん、と、真っ白なブリーフ姿の斎藤工くんを観て私は爆笑してしまい(まあ、劇場で笑っていたのは私だけでしたけれど・笑)、あまりに唐突なコミカルに意表を突かれました。
とは言え、これが単なるコミカルでは無いのもまた事実。要は、マヌケな描写なんですが、ちょち絶望感もあると言いますか。
つまりはこの斎藤工くん=悪漢プロデューサー、別に面白い映画が作りたいワケじゃないんですよね。ただ単に、俺は女優と寝たいだけ、と言っているワケです。
現実の映画界が、映画への愛のカケラも無い、あんなブリーフ姿のプロデューサーばかりで溢れていたら、それって絶望ですよね?
映画という文化は、衰退どころか滅亡しますよ。
と言うか、もはや溢れて返ってしまっているのか?!(笑)
監督のメタファーであるアキが、間接的にミツコを斎藤工くんの場所まで送り出してしまっているのも、また何とも皮肉。

【真っ赤に染まった羽毛】

ファイナル・ディメンションへと突入した物語は、ミツコを直接的な自我との対峙へと導き始めます。
ミツコが、女優として、映画を、そして自分自身を救うためにどうするべきなのか。
文字通り、「自我を殺す」ことによって彼女の通過儀礼は役割を果たすのです。

「わたしたちで遊ぶな!」

廃墟に居たミツコは、突如として過去のフラッシュバックを開始します。
それは、湖のほとりでアキやシュールたちと枕投げをしていた時。
ミツコの人差し指に姿を現した、まるで針先で刺したかのような、一粒の「血」。
ミツコが運命を変えることを決意した瞬間、人差し指の血液に、引き寄せられるように羽毛が吸い付きます。
真っ白な羽毛が、血で染まり切り、やがて真っ赤な羽毛へと姿を変えます。

一見、ここで言う「羽毛」を「女性の純白さ、汚れなさ、処女性」のメタファーだと仮定すると、これは「初潮」や「セックス」の暗喩のようにも思われます。
例えば、前半で「ミツコはまだバージンだから」という台詞が組み込まれていたり、「女の子はいつだってヘンなのよ」という類の台詞から、真っ赤な血を初潮、或いは処女喪失のメタファーとして読み取れなくもありません。
私は結局のところ異なる見方をしましたが、廃墟そのものがミツコの「心」ならば、そこに居座り快楽を求める斎藤工くんは、性欲=イドのメタファーなのではないか、とも読み取れるはずです。
だからこれは、自身の中のイドを殺して、女性にとっての処女性みたいな観念を取り戻すハナシ?それともイドを受け入れて、処女喪失を女性の通過儀礼として描くハナシ?とも、ま、如何なる読み取り方も出来ると思っています。

しかしながら、私は本作を「女優論」のハナシだと信じていますので、ここで軌道を修正。
自身の血=肉体を持って何かに生まれ変わったり表現したりすることとは何か?
ズバリ、女優です。
ミツコは女優のメタファーと仮定しているので、彼女の感情が揺れ動いた瞬間に、真っ白な羽毛を彼女自身の肉体を持って真っ赤に染めたという描写は、極めてエモーショナルな快感に満ち溢れています。
真っ白な羽毛は、「空っぽの、血の通っていない女優」そのものなのではないでしょうか。そう、演技が下手な女優の。
だからこそ、赤く染まった羽毛は、まさに「血の通った演技」を獲得したことの象徴のように感じられます。
ミツコはようやく、「女優」と成り得る準備が整ったのです。自身の血を介して。

全ての女優は、真っ白な羽毛を真っ赤に染めなければならない、自分の血で、肉体で、身体で。
映画女優の最たる美点は、己の肉体が滅びようとも、その命はフィルムの中で永遠に生き続けるということです。
その永遠の命を獲得するためには、羽を真っ赤に染める必要があるのです。

タイトル・バックから舞っていた真っ白い羽毛は、映画を救済する女優たちの背中に生えた「天使」の羽です。
映画にとって、園さんにとって、女優とは天使のような存在なのでしょう。
それって、何とも美しい女優観だと、私は思います。

【スクリーンの中でしか死ねない女】

しかし、自身の血=肉体でキャラクターを補完しても、「女優」の役割はそれだけではありません。
何度も述べているように、自身の中の「自我」との決別を達成しなくてはならないのです。

斎藤工くんから杖を奪ったミツコは、自身の腹部を目掛けて、それを思い切り突き刺します。
そのままミツコは、真っ赤な羽毛の上へと倒れ込み、息を引き取るのです。

これこそ、本作が目指してきた「自我」との決別が達成された瞬間です。
『リアル鬼ごっこ』が提示しているのは、恐らくこの「自我」との別離までの過程として、「自我」を殺害するためには、それ以前に「別の自我」を備える準備が整った「女優」になっている必要性がある、という思考なのでしょう。
だからこそ、「自我」を殺害する前に、あの羽毛が真っ赤に染まる一連のシーンが配置されているはずです。
まず、血の通った肉体=ウツワを用意して、それから「自我」を切り捨てることによって、空っぽではあるが血の通った「女優」のウツワが完成するのです。

パラレルに挿入されるミツコ、ケイコ、いづみたち三者の「死」は、いずれも物語から解放されるための「自殺」(いづみに関しては死因が不明なのですが)であり、永遠に堂々巡りで終わることの無かった「映画」の終結を意味します。
そして同時に、無間地獄に縛られ続けた彼女たちが、ようやく「彼女たち自身」へと変貌し、自身の消滅を持って救済されたことも意味しています。
ミツコが自我を捨て「ミツコ」ではなくなった=女優と化したことにより、呪縛され続けていた「キャラクター」たちは、ついに葬られることになるのです。
彼女たちにとっての「リアル鬼ごっこ」の終了です。

『リアル鬼ごっこ』は、女優を殺し続けた「映画」による敗北宣言であり、救済でもあります。

全ての女優たちは、「映画」に殉愛している存在だと言っても過言ではありません。
殉愛とは、「ひたむきな愛を貫くために、命を投げ出すこと」(日本国語大辞典より)という意味です。
別に、「映画のために本当に=リアルに死ぬ」、ということではありません。
「映画のために"疑似的な死に向かって走れるか"」、ということだと思っています。

果たして現在、何人の映画殉愛者がいるのでしょうか。
きっと、一人でも多くの殉愛者がいた方が良いと思います。
その方が、映画はもっと美しくなるはずですから。

【スクリーンの中でしか生きられない女】

さて、本作はラストシーンであまりにも美麗な回答を示します。
辺り一面、純白に染まった雪景色。
映画館で鑑賞していた私たち観客はそこで気付きます。
まるでそれが、スクリーンそのものだと。

映画のスクリーンが真っ白なのは、女優たちが美しく血を流すための色であるから。
もしかすると園さんは、そんな真っ白いキャンバスを染める女優たちの「色」を信じていたのかもしれません。

「死」を持って完璧なまでの役柄、及び自我との別離に辿り着いたミツコ。
倒れ込んだ彼女の表情は、どこか安堵しているようにも見えます。
しかし、真に美しいのはラストカット。
彼女は立ち上がり、再び走り出すのです。

この映画のミツコは「死」に向かって走り続けます。
いや、「死に場所」が「映画」ならば、それはつまるところ、彼女は「スクリーン」に向かって走っていたことになるのです。
女優に寄り添った、粋なプロットだと思えて仕方ありません。
走り出したミツコがフレームアウトした瞬間、彼女が次なるスクリーンを目指して激走していることが分かります。
もう、彼女は「自分自身」に追い掛けられてはいません。
向かっているのです。
次の役を、次の映画を目指して。
なぜ?
それは彼女が、女優だから。

園さんの声が聞こえてくる「殉愛をやめるな、映画のために、走り続けろ」
女優たちのジャーニーは、きっとこれからも続く。
映画が死なない限り。


『リアル鬼ごっこ』は、女優という業(カルマ)を通して、
まるで、精神分析学者のフロイトが提唱するところの「イド・自我・超自我」たちの逃避行を視覚化したような、日本映画では珍しいエポック・メイキングな一本であると、私は胸を張って断言致します。

アート映画っぽい、理屈っぽくてムズカシイ、なーんて声にも、モチロンうなずけます。
現役女子高生の方々が鑑賞しても、もしかするとピンとは来ないのかもしれません。
はたまた、テメェが書いた長文テキストが駄文・乱文過ぎて本編鑑賞後よりも呆れ返ってるわボケェ!と、激高なさっている方もいらっしゃるかもしれません(笑)

ただ、私は持論として「どんな映画にも面白いところはある」と信じている人間です。
どうにかしてその「面白さ」を発見したい、尚且つ共有したいと、常々強く思っています。
だから、この13000字以上にも及ぶテキストは、『リアル鬼ごっこ』を素直に面白く鑑賞した、私なりの「見方」の提案でしかありません。

少しばかり話は逸れますけれど、嘘偽り一切無く、私はこの世に誕生した総ての映画に「存在価値」があると確信しています。

どんなにツマラナイ作品にも、きっと「面白い」魅力は存在しているはずです。そんな魅力を発見することが、我々、映画ファンの使命なのではないでしょうか。

映画ファンというのは、映画をたくさん観ているから欠点を見破られる人間のことではありません。
色々な映画の「見方」を知っている人間のことを言うのです。

映画ファンだからこそ、どんなにツマラナイ映画でも楽しむことが出来るはずです。
それは映画好き故の特権であり、同時に存在価値でもあると思うのです。


このテキストが、本作をつまらなかったと感じた総ての皆様、或いは、世間の酷評に戸惑っている「本作を純粋に楽しんだ」総ての皆様の元へ届くことを願っています。
前者の方におかれましては、モチロン、私の駄文・乱文なんかで何もインセプション出来ないことは自覚しております。
それでも、もし一人でも私が提案した見方を持って「もう一度観てみようかな」と感じてくださった方がいらっしゃいましたら、こんなに嬉しいことはありません。
そして後者の方、世間の評判なんかを崇拝する必要はありません。
自分の好きなものを、好きだと信じられていることに誇りを持ってください。

以上、とある映画好きによる、『リアル鬼ごっこ』の「見方」のレポートでございました。


余計なお世話だバカヤロウな追伸1
主演を務めたトリンドル玲奈さん、篠田麻里子さん、真野恵理菜さんのお三方は皆さん最上級に素晴らしい好演でしたけれど、兎に角、まさかトリンドルさんという女優がこんなにも演技巧者だとは予想だにせず。
美しい容姿は勿論のこと、怯えた顔や絶叫する様の説得力に、スクリーミング・ヒロインとしての役割をオールクリアしているように感じました。
走り方がどーのこーのと書かれた評も読みましたけれど、ミツコは「未完成な女優」の象徴なので、序盤から走りのフォームが美しくある必要性は無いかなと。
とにかく、生まれたての小鹿のような生命力の乏しさが、逆説的に少女のキラメキを倍増させており、彼女が画面に映るシーンは目が離せませんでした。いやはや、ファンになりましたよ(←綺麗な女性を見ると大抵はこの台詞)。

余計なお世話だバカヤロウな追伸2
本作についてナニカ書く際に、シュールちゃんのことに関して何一つとして書かないのはさすがにどーかと思いましたが(笑)、ま、私はあまり彼女には着目しませんでした。
と言うのも、彼女は「人生はシュールだ、シュールに負けるな」という園さんが伝えたいメッセージそのもの=「記号」でしかなく、「記号」としての役割は正しく果たしているのですけれど、如何せん、キャラクターとして個人的には感情移入が難しく……とは言え、中指を立てる行動や身に付けているアクセサリーから類推するに、『愛のむきだし』(08年)で満島ひかりさんが演じたヨーコの別次元での姿なのでは?とも思ったりしましたよ。


【関連記事】
世界一HAPPYな屍(になりたい私たち) 『ゾンビデオ』
こちらも、アイドルが出演しているホラー映画。アイドルがホラー映画の主演である必要性に関しても書いています。言うだけ野暮ですが、そういえば『ゾンビデオ』も、℃-uteファンの皆様からはあまり好評では無かったんですよねい……(笑)



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2015年7月19日日曜日

神々の前で、上書き保存は許されない 『新しき世界』

『新しき世界』(2013年/パク・フンジョン監督)
【あらすじ】
優しいヤクザに、冷酷な警察…俺はもう、潜入捜査を辞めたいッ!!

『新しき世界』はモザイク映画です。
モザイク映画なんちゅー仮称をすると、卑猥な描写を隠蔽するための「モザイク」が満載な映画を連想されるかもしれませんが、そんなハズがありませぬ。
語弊を招かぬように言い換えるならば、「コラージュ映画」と言った方が適切かもしれません。或いは、「リミックス映画」とも表現出来るでしょう。

では、『新しき世界』では一体何がコラージュ、リミックスされているのかと言えば、古今東西、数多のギャング映画クラシックスの「面白い部分」だけで構成されているのですね。
例えば、犯罪組織の後継者のハナシである『ゴッドファーザー』を筆頭に、潜入捜査官モノでは『インファナル・アフェア』や、アル・パチーノとジョニー・デップ共演の『フェイク』、さらにはチョウ・ユンファ主演の『友は風の彼方に』(クエンティン・タランティーノ監督の『レザボア・ドッグス』の元ネタ!)を思い起こさずにはいられません。また、犯罪組織の血まみれの権力争いを描いたジョニー・トー先生による『エレクション』二部作も影響下にあることでしょう。

要するに、まずギャング映画同好会らしきサークルがあると想像してください。もうサークルの会員全員、みんな死ぬほどギャング映画が好きで、死ぬほどギャング映画を観ているんですよ。で、ある日、一念発起の決心をするんです。「俺たちの観たいギャング映画を作ろう!」って。彼らはみんな自信満々で、うん、やろうやろう!って意気込むワケですよ。大好きなんだもん、ギャング映画が。ジャンルに関する知識も兼ね備えているし、何せ愛がありますから。俺らになら、それなりに面白いモノが作れるっしょ!という気持ちと共に突き動かされるんですね、映画制作に。あの映画のあのシーンはオマージュマストっしょ?とか、ねえねえ、生のコンクリートを飲ませたギャング映画ってあった?ねえ、無かったよね?そうだよね!え、じゃあ絶対やろうよドリンキング・コンクリート!やっべぇ、このアイデアはマジやっべぇー!とか、みんなでキャッキャ話し合ったんです。
で、出来上がったのが、この『新しき世界』なんです。(※この文章中には、一部フィクショナルな描写が含まれております)
「要するに」と文頭に飾っておいて、全然要約出来ていませんけれど(笑)

話を戻します。
ギャング映画の名作たちの「面白い部分」だけを繋ぎ合わせて作られたのが、この『新しき世界』だと言っても過言ではございません。
……なんて言い方をすると、まるで本作が名作の「いいとこ取り」をしたかのような印象を受けるかもしれません。いや、実際その通りなのですけれど(笑)、それでも、この映画は超絶に「面白い」のです
そんなこたぁ当たり前で、オモシロ要素で繋ぎ合わされた映画がオモシロくないわけないだろ!、と怒号を垂れる方がいらっしゃるのも頷けます。
しかし、コラージュの元がギャング映画という同ジャンルのモノとは言え、ここまで沢山のオモシロ要素を詰め込んでも尚、先の読めないスマートな脚本に仕上がっている辺りが、さすがは韓国映画の座組と言うべきでしょうか。
ホツレが無いんですよ、こんなに好きなモノを好き放題に足し算しているのに。
その点が素晴らしいですね。タランティーノの真似をして、好きな映画のサンプリングばかりを下手糞に行う監督たちに見習ってほしい!(笑)

しかしながら、これは『新しき世界』自体に是も否もありませんけれど、やはりコラージュやリミックスでは名作たちの壁を越えることは出来ません。
と、少なくとも私は感じました。
つまるところ、余計にクラシックたちの偉大さを思い知ってしまった、とでも言うべきでしょうか。

『新しき世界』の作り手たちからは、彼らが敬愛する幾多のギャング映画クラシックスたちを、自分たちの手で咀嚼し、昇華し、新たな名作を誕生させようと奮起しているのが感じられます。
しかし、私には彼らが、名作を「越えよう」としているとは思えないのです。
むしろ、「越える」という行為をおこがましいと認識していて、それらの足元にひざまづいて、まるで「供物」として「映画=『新しき世界』」を捧げているような感覚があるのです。
これこそが作り手側の「愛」であり、前述した歪さを感じさせないスマートな脚本作りも、このような感覚所以のものだと思っています。
だからこそ、『新しき世界』は老若男女誰しもが観てもチャント「面白い」ですし、名作の数々を思い起こして再見したくなるだけでも、映画好きにとってはソレだけで「面白い」作品になっているのです。

とまあ、ツラツラと駄文を羅列しましたけれど、兎にも角にも、ファン・ジョンミョンが演じたチョン・チョンですよ。もうね、チョン・チョン最高ですよ。可愛いよチョン・チョン。結婚してくれチョン・チョン。
かつて、ここまで気さくで、お茶目で、情にも厚くて、舎弟のことをブラザーと呼んで、そのブラザーからの着信にニコニコしながら応答して、そんでもってエレベーター内で血まみれバトルを披露してくださったギャングはいませんでしたよ。
果たして、この映画を観て彼のことが嫌いだと感じられる方が、この宇宙にいらっしゃるのでしょうか。
という極論まで私は提言してしまうほどにチョン・チョンの魅力にノックアウトされてしまいました。え?俺はチョン・チョンなんか嫌いだ?
テメェはケツの穴からコンクリートでも飲んでろヴァーーカ!

そんな究極の「オトコ萌え映画」でもありますので、男性諸君、並びに女性諸君、特に腐女子の皆様、つまるところ全人類たちよ、この映画のチョン・チョンを見ずして、棺桶に足を突っ込むかれ!!


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2015年3月29日日曜日

先輩、もう呑めません! 『神々のたそがれ』

『神々のたそがれ』(2013年/アレクセイ・ゲルマン監督)
【あらすじ】
とある惑星で神様になったんですけど、正直しんどいです…

構想35年、製作期間15年、上映時間177分、巨匠アレクセイ・ゲルマン監督によるトンデモ映画がついに上映!
大好きな作家兼ミュージシャンの町田康さんと中原昌也さん(偶然お二方とも同じ職業)のトークショー付き上映に参戦して参りました。

結論、ぐっちゃぐちゃ映画の大傑作でした。

何がぐちゃぐちゃって、もう画面に映るモノ全てがぐちゃぐちゃなんですよ。
雨はザーザー降ってるし、霧はモヤモヤ出てるし、地面は泥まみれだわ、血は出るわ、生卵割るわ、スープ飲むわ、唾吐きまくるわ、おしっこするわ…おいお前ら、きったねえよ!

もはや177分間、画面に映るありとあらゆる総てが異様にエネルギッシュな本作なのですが、私はとにかく撮影が凄まじいなと感じました。
いや、全く想像が出来ません、どうやって撮影したのか。

本作の撮影方法としましては、主人公の行動を追い駆け回る「架空の撮影クルー」のような視点でキャメラを回し続けているんです。
だから画面に映る人々は、時たま「カメラ目線」をかましてきます。(実に映画的な瞬間です)
やがて、その過程を通して、もはや本作がフィクションであることすら忘却してしまう感覚が到来。
観客はまるで、本当に異星のドキュメンタリーを見ているかのような、不思議な錯覚に陥るに至るのです。
文献を拝読すると、ゲルマン監督は役者の配置や動きを徹底的に指導したらしいのですが…いや、もはや演出の跡が全然見られないのですが…ってか分からん、何が演出で、何が芝居なのか。
もうね、きったない人たちが、いえーーーい!とダブル・ピースする勢いでキャメラに突進して来るんですよ(笑)
俺も俺もー!みたいな感じで、被写体の方から、どんどんキャメラに迫って来る。
コレ、もはや「動線」のハナシとか、そう言った通常の映画作りの概念では語れない撮影だったのではないかと思いまして。
画面上の凄まじき情報量も、溢れ出るエネルギーも前代未聞。
こんなパワーを生み出せるのは、世界中の映画史を眺めても、恐らくはゲルマン監督ただ一人でしょう。

余談ですが、私は本作をショット単位で見た際に、黒澤明の影響を感じざるを得ませんでした。
と言うのも、雨+ぬかるんだ地面+馬なんて公式を出されると、そりゃあイコール『七人の侍』やんけ!、と答えるしかありません。
弓矢がグサグサーって刺さってるのは、『蜘蛛巣城』の影響カシラ?なんて思ったりもしました。
実際、ゲルマン監督はキューブリックやタランティーノのことが大嫌いだったみたいですが(笑)、最も尊敬していた監督というのが黒澤明だったらしいです。
しかし、もはや世界のクロサワもってしても、そのコネクションを引き合いに容易に語ることがはばかれる、『神々のたそがれ』はそんな唯一無二の怪物フィルムでございます。

本作を鑑賞している際の感覚としましては、「新宿ゴールデン街で先輩と呑み始めたら、先輩がべろんべろんに酔っ払い始めて、めちゃくちゃ泥酔しながら暴れまくり、そのまま呑み屋のハシゴに無理やり付き合わされて、店先で更に頭のおかしな人たちと出会い、身体も脳も肝臓もカオスな領域へと達して、もはや意味不明な会話に意味不明に笑いつつ、朝までオールさせられる」状況とほぼ同じです。
って、なんだその状況!(笑)

これは皮肉でも何でも無くて、この映画は鑑賞後、とにっかく疲労感が半端ないんですよ(笑)
いや、もちろん退屈するような場面は一瞬も無かったですし、だからツマランとか、そういう次元のハナシをしているのではありません。
要するに、観る側も最大限のやる気と体力が必要とされるワケなんですね。
私もレッドブルをグビグビ飲みながら(笑)、全身全霊で本作と対峙しましたけれど、それ同等の、いやそれ以上の体験が出来たことは、ここに断言致します。

『神々のたそがれ』の地獄めぐりは、言い換えれば「酔っ払った先輩に無理やり連れ回されている感覚(by.中原昌也さん)」に本当に近いのですけれど、それでも呑み終った後「トンデモない一夜だったけど、トンデモなく楽しかったなぁ」という印象の方が強い、まさにそういう映画なんです。
とは言え、連れ回されてる間はずっとこう言ってましたけど。
「先輩、もう呑めません!」
「バーロウ!お楽しみはこれからだ!」と、どんどん酒を注いでくる先輩…殺す気かっ!
いや、ホントにそんな映画なんですって(笑)

本作に関しましては、既に様々な論評が提示されていますし、シネフィルな皆さまが大変鋭くタメになる評論をアチラコチラで書かれていらっしゃいます。
ただ、私が言いたいのは、本作はそうしたシネフィル・イメージから思われがちな、お高くとまった芸術映画などでは無いということです。
もちろん、観る人を選ぶ映画なのは確かですけれど、映画を体感する立場に徹する上では、ビギナーだろうがクラスタだろうがシネフィルだろうが、もはやそんなパーソナリティは関係ありません。
この映画を前にした誰しもが、その怪物級のエネルギーと向き合う義務がありますし、21世紀を生きる我々がこの怪物の襲来を避けることは、たぶん許されていないのです。
いや、絶対に勿体無いですって。二度と作られないであろう、こんなひっちゃかめっちゃかな映画とリアルタイムで遭遇出来るんですよ。
と言うか、そういう人生における「事件的」な遭遇が「映画」の醍醐味だと思うんですよね。
ということで、「これを見ずして映画を語るなかれ!」(by.蓮實重彦先生)

おやおや、テメェいつもよりテキストが短くは無いかね、と疑問符浮かべるそこのアナタ様…
うるさい!こんな映画、言語化できないっつーの!
今、中原昌也さん作曲のオリジナルCDを聴きながら、パンフレット一生懸命読んでるんだよ!
正直、この劇場用パンフレットが最も参考になる資料ですし、テキストや写真を含めた95ページにも及ぶ大ボリュームですので、鑑賞された方は、激しく購入を推薦致します。

最後に、本作を鑑賞して最も感じたことは、結局「映画」が一番強いんだ、ということでした。
文学、音楽、演劇、絵画…あらゆる芸術と呼ばれるモノの中で、ああ、映画に描けないモノは無いんだな、映画に限界なんて無いんだなって、確信を持つことが出来たんですよ。
そういう勇気を貰ったような気がします。
映画に関して論じる際に、いまや100万字の論文は不要となりました。
なぜなら、映画という最強の芸術、『神々のたそがれ』を提示すればいいのですから。

そして、映画界唯一の哀しみは、本作がゲルマン監督の遺作であり、このトンデモナイ怪物を創り出した魔術師は、もう21世紀を生きていないという、ただその一点のみであります。


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2015年3月28日土曜日

ペンも拾えぬ僕だから 『博士と彼女のセオリー』

『博士と彼女のセオリー』(2014年/ジェームズ・マーシュ監督)
【あらすじ】
天才の身体がやばいので、奥さんが支えます。

毎年の恒例行事としてアカデミー賞の予想を勝手にしているのですが、主要ノミニーに関しては、ココ5年間連続で的中させていたんですよ。
が!今年、ついにその連勝記録にピリオドが打たれてしまいました。ファック!(別に誰も損はしない)
外してしまったのは、主演男優賞。
私は『バードマン』のマイケル・キートンを予想していたのですが、結果は本作『博士と彼女のセオリー』のエディ・レッドメインくんが見事オスカーに輝きました。
確かにレッドメインくんは若手演技派ではありますが、彼はまだ若いですし、まさか『レミゼ』の革命野郎が獲るとは思っていませんでした。(語弊を招く文字列)
しかし、いざ映画本編を観たら超納得。こりゃあオスカー差し上げないと、ってなりますよ。
(ちなみに監督賞もハズしまして、私は『6才のボクが、大人になるまで。』のリチャード・リンクレイターを予想したのですが、結果は「声に出して言いたい監督」ことアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥさんが受賞なさりました。)

本作は、理論物理学者であるスティーヴン・ホーキング博士の奥さん、ジェーン・ホーキングさんの回顧録『Travelling to Infinity: My Life with Stephen』が原作。
1963年ケンブリッジ大学で出会ったホーキングとジェーンが、ホーキングが患った大病をキッカケに、互いに惹かれ合いつつ摩擦していく、25年の夫婦生活を描いたオトナな一本です。

当然、主演はホーキング博士なのですけれど、結論から言うと、私は奥さんのジェーンさんの姿に胸を打たれてしまいました。
なるほど、夫が大病に倒れようとも、必死に彼を支える献身的な姿に涙したのね…
と、思われたアナタ。
否!
これが全然っ、そんな綺麗ごとで済まされるハナシじゃねぇんだよ!、というのが本作のキモです。

結論から言うと、夫婦でお互いに愛し合ってるのは確かなんですけれど、だからこそお互いに裏切り合う、ちょち怖いけど、かなーりオトナなラブストーリーだと感じました。

エディ・レッドメインが演じたホーキング博士ですが、芝居と言うより、もはやメタモルフォーゼの域に達しています。
凡庸な言い方ですが、本当にALS(運動ニューロン疾患)患者にしか見えないんですよ。
しかもコレ、パンフレットにて映画評論家の杉谷伸子さんも書かれていましたが、この手の俳優が醸しがちな独特の「熱演感」と言うか、「ドヤッ!俺ってすごいやろ!」な自己顕示欲がですね、ほぼゼロに等しいんです。
つまり、観客に全く「演技」として意識をさせず、スクリーンに映っているメガネが汚れた青年は「スティーヴン・ホーキング博士本人」であると思わせるチカラが、彼にはみなぎっているのです。

言ってしまえば、私は若かりし頃のホーキング博士のことを微塵も知りませんでした。
当然、彼にも青春時代があり、もちろん普通に歩いたり、話したりしていたはずです。そう、それは当然なんです。でも、やっぱり車椅子に乗っていらっしゃる姿でしか博士のことを認識しておらず、彼の私生活については、まず知ろうとも思っていませんでした。

だからこそ、本作が描く「天才」だけではない「人間」ホーキング博士の実態の面白さや魅力には、驚嘆すると同時に、非常に感心させられた次第です。
ってか、ホーキング超楽観主義やんけ!と、まず彼のポジティブ・シンキングな性格にびっくり。
治療法の無い病を患い、余命2年を宣告されたにも関わらず、彼の口から弱音は吐かれません。口から出るのはユーモア溢れる発言ばっかり。と言うか、病気になる前からオンナ好きだしギャンブルも好きだったみたいで、元々ド真面目な性格ではなかったんですね。
例えば、2段ベッドから降りる際に階段を使わず、そのまま机の上に足を降ろすという場面があります。この細かな仕草一つから見ても、決してただのインテリ青年ではなく、頭以外の中身は、実は私たちと何ら変わりないというリアリティをもたらしてくれるのです。
なるほど、ホーキング博士ってこんなに明るくて面白いヒトなんだぁ、と発見できましたし、彼の楽観的な性格のおかげで、難病モノにありがちな、いわゆる「お涙頂戴」な展開に走っていないのも好感が持てました。


で、奥さんのジェーンさんを演じたフェリシティ・ジョーンズですよ!
告白しますけれど、完全にフェリシティ・ジョーンズのファンになってしまいました。
もうね、彼女に胸を打たれてしまったんです。
オマエ、年中誰かに胸打たれてるな、と思われるかもしれませんけれど、仕方ないですよ、恋多き男なんです(笑)
あと、面食いなんでね。ハリウッド女優さんで綺麗な人は、すぐ好きになっちゃいますから(笑)
もはや私は、「ジョーンズ」という文字列を見聞きした際に、それまでのボンクラ脳が導き出していた「インディ・ジョーンズ」という連想は無くなり、「フェリたん!フェリシティ・ジョーンズたん!」と反射的に思い浮かべることに成功しておりますので。

よく考えてみれば、私がフェリたんとファースト・コンタクトを果たしたのは『アメイジング・スパイダーマン2』の時だったんですね。
当時はあまり意識していませんでしたが、彼女は、デイン・デハーンくんが演じたハリー・オズボーンの秘書ことフェリシア・ハーディを演じてたんですよ。
スパイダーマンの原作読者の方は、この「フェリシア・ハーディ」という名前を聞いただけでもハッ!としてしまうのですが、それもそのはず。
実を言うと、スパイダーマン史上最大のエロキャラにしてお色気担当ヴィラン、ブラック・キャットの本名が「フェリシア・ハーディ」なんです。
(コレ、ネタバレでも何でもないですよ!超有名なエピソードですから!)
なんちゅーこった!じゃあこの秘書チャンが3作目以降でブラック・キャットに変身して、スパイディとあんなことやこんなことを…と、妄想を掻き立てられておりました。

ということで、『博士と彼女のセオリー』では、まだおとなしいブラック・キャットことフェリたんが本当に可愛いのです。(色々と混乱している)

↑『アメイジング・スパイダーマン2』より、秘書のフェリシアを演じるフェリたん。
フェリたんと俺は既にこの時に逢っていた!これは運命だ!(重症)
フェリシティ・ジョーンズ、何が素晴らしいって、彼女の喜怒哀楽の表現の豊かさですよ。
もちろん、表情による芝居という面では、エディ・レッドメインによる眉毛や瞬き一つの動かし方まで徹底した表現力も凄まじかったのは確かです。
しかしながら、フェリシティ・ジョーンズの顔面威力も負けず劣らず。
優しく微笑む表情は、すこぶるキュートで愛くるしい輝きを放ちますが、むしろ彼女の本領が発揮されるのは無表情の時だと思ったんですね。
蓄積された怒りや哀しみを押し殺して、無表情ながら真っ直ぐな眼差しを送る、その「顔面威力」の強大さ。
「静」の表情を見せながら、隠された、いや、どうしても滲み出てしまう「動」の感情を垣間見てしまい、その時スクリーンは、完全に彼女に支配されるのです。
笑顔を浮かべている彼女も十二分に美しかったのですが、押し黙ることによって見せる苛立ちや悲哀の表現が、本当に見事としか言い様がありませんでした。
俺も睨まれたい!(当分、この病は治りません)

どこかで聞いたことのある、ファミリーレストランみたいな名前の優男さん。
さてさて、中盤、このホーキングとジェーンの間に、チャーリー・コックスさん演じるジョナサンという優男が登場するんですよ。
このチャーリー・コックスさん、スコセッシが製作総指揮を務めた『ボードウォーグ・エンパイア』のシーズン2&3で、主人公のスティーブ・ブシェミのボディガードをやってた人なんですね。(あと、テレビドラマ版『デアデビル』の主演も決定したそうな!)
彼が登場してから、ホーキングとジェーンの仲は、少しずつすれ違い始めるのです。
…って昼ドラか!と思われるかもしれませんが、いやいや、これが全くソッチのドロドロ展開はせず。まさに観客の予想とは異なる、大変オトナな回答を示すのが、本作の特筆すべき点なのです。

ジェーンとしては、わたしひとりで介護するのは大変だからと、ジョナサンに助けを求めるんです。
ただ、ホーキングからしてみれば、家庭内に他の男が入って来るのがスゲェ気に食わないワケですよ。
だから最初は、ジョナサンに対して敵意むきだしなんです。

ホーキング家で、ジョナサンが夫婦と一緒に食事をするシーンがあるんですね。
その時に、ジョナサンが食事を、スプーンでホーキングの口元まで運んであげるんですよ。
つまりは、「あーん」してあげるんです。
だけど、ホーキングは、もうあからさまにガン無視かますんですよ(笑)
お前がすくった喰いモノなんか喰わねえよ!って。男として、夫として意地張っちゃう。その姿がすごいおかしいんですけどね。
でも、ホーキングも徐々にジェーンの気持ちに気付いてきて、結果的にジョナサンが介護を手伝うことを認めます。
それは彼なりに、辛い決断の一つだったんですよね。

少しばかりうがった見方をすれば、奥さんの浮気と言うか、そういうスキャンダルを自ら肯定して認めるみたいな、そういう感覚なんですよ。

対してホーキング自身も、物語の終盤、ジェーンに対してどういう決断を迫るのか。
そしてジェーンは、果たしてそれをどのように認めるのか。
傍から覗けば、実にスキャンダラスな関係性に見えるかもしれない、ホーキング夫婦の「カタチ」。
しかしながら、当の本人たちにとっては、お互いを心から信頼し合っているからこそ導き出された「カタチ」そのものなのです。
だからこそ、我々観客は、この驚くべき不思議な夫婦の「カタチ」を目の当たりにしても、決して嫌悪感は抱かず、むしろ祝福するかのように、彼らの結論に心奪われるのです。

これはプロットからも容易に想像できる通り、『ブルーバレンタイン』とか『レボリューショナリー・ロード』とか、最近で言えば『ゴーン・ガール』も含まれますが、要はジャンルとしては「夫婦モノ」なんです。
もっと言えば、夫婦にとっての「愛のカタチに関する新しいセオリー」を提示する映画とでも言いましょうか。

本作の作り手は、この夫婦の「カタチ」を否定するわけでも称賛するわけでもなく、その結論を導き出したあらゆる過程、つまり「時間」を優しく見つめ直し、夫婦にとっての「小史」として描いています。その平等な視線と精神こそ、マコトに素晴らしいと思った次第です。

ホーキング博士本人とレッドメイン&フェリたんのスリーショット。いい写真。
ところで、物語終盤、ホーキング博士の講演会が行われるシークエンスにて、非常に印象的なシーンがありました。
多くのオーディエンスが集まる中、学生の一人が机の上からペンを落としてしまいます。
それを見たホーキングは、車椅子から立ち上がり、自分がそのペンを拾い上げに行く…という想像をするんですよ。当然、彼の身体は動きません。

このシーンは、視覚的に彼の心情を描いた、映画的なカタルシスに満ちた素晴らしい構成であるのと同時に、大変ペーソスなシーンでもあります。
世界的に認められた天才だけれど、一人では落ちたペンすら拾うことが出来ません。
彼がまだ若かりし頃、落ちたペンを拾って机に戻す、というシークエンスが確かにありました。
それがもう、今の自分には一人では出来ない。そう、一人では。

実は『博士と彼女のセオリー』は、落ちたペンを拾ってくれるパートナーの大切さに気付く物語でもあります。

そして重要なのは、ペンも拾えぬ僕「だけど」ではなく、ペンも拾えぬ僕「だから」という結論が導かれている点です。
ペンも拾えぬ僕「だけど」、どうかずっとそばにいてほしい…という願いではなく、ペンも拾えぬ僕「だから」、僕と君は…さて、ホーキング博士が導き出したオトナな愛のカタチとは?

ここで述べている「ペン」というのは、何もモノホンのボールペンだとかシャープペンシルだとかを指しているのではありません。
それはつまり、人間が一人では乗り越えられない「困難」であったり「苦難」であったり、そういったパートナーと共に立ち向かうべき「障壁」を意味していると思います。

さて、今この文章を読まれている紳士淑女の皆さま。
果たしてあなたは、落ちた「ペン」を一人で拾うことが出来るでしょうか。
或いは、その「ペン」を拾ってくれる大切な人と出会うことが出来ているでしょうか。
どうか一人でも多くの皆さんが、ペンを落とすことを恐れませんように。




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2015年3月26日木曜日

世界一HAPPYな屍(になりたい私たち) 『ゾンビデオ』

『ゾンビデオ』(2012年/村上賢司監督)
【あらすじ】
矢島舞美さんが日用品を駆使してゾンビを倒しまくります。

渋谷ユーロスペースにて『ゾンビデオ』の上映に足を運んだのが2013年。
今から数えて、かれこれ2年前となります。
当時、私はムラケンさん(村上賢司監督の愛称)の新作にして和製ゾンビ映画という、言ってしまえばただそれだけのエサに飛びつく魚だったのですが(笑)、鑑賞後の脳内を渦巻くアドレナリンと言うか、ドーパミンと言うか、とにもかくにも感情は高揚し、レイトショーだったので終電ギリギリで帰宅し、帰宅しても尚、興奮し続けていたのを、ぼんやりと記憶しております。

そのぼんやりとした記憶の端々で、真っ赤な血にまみれた「彼女」が格闘する姿、返り血のメイクを施した「彼女」の表情、そして美しく力強い「彼女」の眼差しが、まるで走馬灯のようにフラッシュバックされておりました。

…え、人はそれを「恋」と呼ぶのです、ですって…?

ということで、私が彼女の存在を認識してから、かれこれ2年となります。
後にファナティックな感情を抱くに至り、現在リアルタイムでこのキモチ悪い文章を記している訳ですけれど、とりあえず、私の恋バナは一旦置いておいて(笑)、ホラー映画が苦手な方や、ゾンビ映画ビギナーな方にも推薦したい一本『ゾンビデオ』のハナシです。

【公開を2年遅らせろ】

突如発生したゾンビに対して、「ゾンビ学入門」という名のゾンビ撃退HOW TOビデオを見ながら、美少女がゾンビをぶっ倒していく、というのがシノプシス。
主人公を演じるのは、ハロープロジェクトのアイドルグループ・℃-uteのリーダーである矢島舞美さん。
同じく、℃-uteのメンバーである中島早貴さんも、ちょちワケありなゾンビ役で出演しています。

私が本作の存在を初めて知ったのは、『ゾンビ映画大マガジン』(洋泉社)で紹介されている記事でした。元々は『ゾンビ学入門』というタイトルで製作が進行しており、当時は、ムラケンさんが監督、人生をゾンビに捧げていらっしゃるゾンビ映画研究家の伊東美和さんが監修、そして『映画秘宝』読者やサブカル界隈ではご存知アイドルの小明さんがゾンビ役で出演するという情報のみが提示されていました。

後に「公開を2年遅らせろ」という霊媒師の忠告を受け公開延期となった本作は、ファンの要望により結局1年早く上映がされたとのことです。
ちなみに、霊媒師が告げた「2年後=2013年」という数字は、偶然なのか、℃-uteにとっても忘れがたい年となっています。℃-uteはこの年、自身初の武道館公演を成功させ、その人気に増々の拍車をかけることになったのです。そんなオメデタイ年だからこその延期忠告だったのか、或いは、忠告を1年間だけ守ったおかげでオメデタくなったのか、真相は霊媒師のみぞ知る、ということで。


【アイドルとホラー映画】

アイドル×ホラーという公式は、何も珍しいことではありません。
同じハロプロ勢ならば、真野恵理菜さん(2013年ハロプロ卒業後、現在はジャストプロ所属)が出演している『怪談新耳袋 怪奇』も大変素晴らしいアイドル・ホラー映画でした。

そもそも、アイドル・ホラー映画の客層は、必然的にファンがターゲットとなっており、それは同時に、アイドルの微細な表情の変化をくみ取れる観客であることも意味します。
その「顔」、すなわち表情の変化で感情を表現する芝居が多くなるため、クローズアップが多用されるのも、このジャンルの特徴です。(もちろん、ファンサービスの面もありますが・笑)

否演技巧者であるアイドルは、演技と言うよりは、自身を「素」の状態にして、パーソナリティの経験値から感情を引き出していきます。
だからこそ、「女優」のようなプロフェッショナルには出せない「現実感」を生みだすことが出来る訳です。

…しかしながら、正直、どうせ絶叫したり怖がったりするのなら、可愛い女の子の方がいいじゃん!というのが一理。
(ちなみに、上記したアイドルとホラーの関係性については、TBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』で放送された『心霊映画特集』において、映画監督であり脚本家の三宅隆太さんがお話しされたことを参照しています)

一見すると、『ゾンビデオ』は低予算のアイドル・ホラー映画のように見えます。
いえ、実際にその通りです。
しかし、重要なのは本作が「アイドル×ホラー×コメディ」という3つの要素から成り立っている点です。ここまで陽気で、愉快で、老若男女問わず、ホラーファンもホラー嫌いも楽しめるアイドル・ホラー映画は珍しいのではないでしょうか。

…なんて書きますと、やれ画面がチープだの、やれ脚本にツッコミが多すぎるだの、どこが誰でも楽しめるんだい、と、真剣にぷんすか文句を垂れる方々がいらっしゃいますけどね…るせーよバカ!
ゾンビが出て、美少女が出て、その美少女がゾンビをぶっ殺しまくるんだぞ。最高じゃないか!

偏見を持たれがちなホラー映画やゾンビ映画は、こんなに笑えて楽しんものなんだよ!という作り手側のメッセージだけでも、本作の存在価値は証明されています。
それはまるで、ゾンビ・コメディ映画の傑作『死霊のはらわた2』や『バタリアン』がそうであったように。
スクリーンに血しぶき、客席に笑顔。
そんな映画こそ、どんなに上品ぶった文芸映画よりも、よっぽど芸術的だと信じております。

【ゾンビより危ういオトナたち】

『ゾンビデオ』のもう一つの魅力に、脇を固める俳優陣がすこぶる強烈であることが挙げられます。
宮崎吐夢さん(ホラー映画オタク役)、大堀こういちさん(オカマの社長役)、鳥居みゆきさん(ゾンビになれなかったゾンビ役)、諏訪太郎さん(『冷たい熱帯魚』に続き、また死ぬ役)たちによる、コメディ・アンサンブルが実に見事でして、本作がアイドル・ホラー・コメディとして成立した要因は、彼らの功績だと言っても過言ではありません。

宮崎吐夢さん演じる橋本を見て「これは俺らだぁ~」と思ったり、大堀こういちさん演じるオカマ社長は「そうそう、昔のホラーにはこういうヘンなキャラがいて、妙に言うことに説得力があるんだよなぁ~」と思ったり、鳥居みゆきさん演じるヤスデは「この格好はマンマ女囚さそりやないかい…ってか、鳥居さん美人!」と思ったり、諏訪さんが指を噛まれて股に挟んだのには笑いましたし…と言うか、全員が濃すぎるんですよね、良い意味で。

しっかし、さすがにふんどし姿の杉作J太郎さんが登場した時には驚きました。場内爆笑だったのを憶えています。まさか杉作さんが最強のゾンビデオだったとは!(笑)

つまるところ、『ゾンビデオ』は矢島舞美さん、中島早貴さんという現役アイドルたちを、ゾンビ以上に危ういオトナたちと共演させるという、その企画自体が前代未聞であったと思います。
尚且つ「世界一キュートなゾンビ映画」というキャッチコピーに偽り無し、今まで観たことも無い、明るく楽しいアイドル・ホラー・コメディへと仕上がっているのも事実です。

【低予算ホラーだからこその創意工夫】

もう一つ。実を言うと、私は何度か映画を制作したことがある身でして、そういう者からすると、心底感心してしまう箇所がありまして。

ホラー映画というのは、基本的にロケーションが難しいんです。なぜなら、「汚してしまう」可能性が多分にあるから。血糊を使用するスプラッターになると尚更、血まみれの現場を現状復帰するのは非常に大変な作業です。
それらを踏まえて、『ゾンビデオ』が工夫しているなぁと感じたのが、舞台となるビルを「改装中」という設定にしたことでしょう。

血糊などを使用する撮影の際は、キャメラが汚れないように「養生シート」で覆います。『ゾンビデオ』では、ビルのいたるところに養生が成されているのですが、これが改装中という設定のおかげで、全く違和感がありません。
なるほど、これは一つ上手いこと考えたなぁ、と感心せざるを得ませんでした。
低予算映画の面白いところは、こうした作り手のクリエイティビティが垣間見れる点です。
グッジョブ!


【主演女優・矢島舞美に関するファナティックな表明】

さて、乱文・駄文の極みと言いますか、本来であればここで筆を置いて…いや、キーボードから手を離せばいいのですが、ここから文章は更にキモチ悪さを加速させていく予定なので(笑)、心の広大な方も、たった今薄み笑いを浮かべながらキレかかっている方も、そして総ての℃-uteファンでいらっしゃる方も、何卒ラストランまでお付き合いくださいませ。

以下のセクションにおきましては、主に「彼女」に関する事柄を書き綴らせていただきます。(このことは、あらゆる媒体、及びプライベートですら誰にも言ったことがありませんで、私の心の中の秘密でしたので、そういうブッチャケをしているということを、文章のバイブスから感じ取ってくださいませ・笑)

ファースト・セクションでも述べたように、本作を鑑賞して以来、私は「彼女」の魅力(「実力」ではなく「魅力」、ココ、重要!)に憑りつかれてしまい、早いところお祓いすれば良かったものの、現代は情報社会ですから気軽にYOUナントカTUBEで「彼女」が歌唱し、舞い踊る姿が拝見できてしまいまして、もう完全に除霊不可となってしまいました。

もうバコーンと、バコーンと心がずいぶん重くなってしまって、帰りに食べるうどんも喉が通らないと言いますか…(ごめんなさい、完全に℃-uteファンの皆さんに向けて発信しておりますので・笑)

ということで、矢島舞美さんの魅力を語るのは、この乱文内においては遥かに空間が不足しており、不可能です。

しかし、不肖映画呪われ人な私から、『ゾンビデオ』の矢島さんに対して最上級の賛辞を送らせていただくとするならば、第一に「今まで血を浴びてきた幾多の女性の中でも最も美しい」ということ、そして第二に「格闘されている姿が、まるで志穂美悦子さんのようだった」ということ、であります。


【血まみれで闘う女性が、映画で最も美しい】

上半身は血糊で真っ赤に染まった黄色のタンクトップ(ちなみに黄色と言えば℃-uteのメンバー・萩原舞さんのイメージカラーですが、ホラー嫌いであるメンバー最年少の象徴を血まみれの赤=矢島舞美さんのイメージカラーに染めるとは、これ真相如何に。って、絶対に深い意味は無いと思いますけれど・笑)、下半身はホットパンツという、完璧な装いで立ち振る舞う彼女の姿は、眺めてるだけで至福、その画だけで満足。

鮮血(では無いですね、ゾンビの血だから)を浴びつつも、乱れ髪の間から覗かせるその眼差しの力強さたるや。もうね、格闘する以前に勝敗が決まっているんですよ。あの目と対峙する者は、既に敗北していると言いますか。そういう目をしていらっしゃるんです。
アイドル映画は目力命と言われますが、だとしたら、矢島さんが映られたあらゆるカットは、マコトに「アイドル映画」としての機能を保っていたと断言致しましょう。

また、楳図かずお作品ライク、対象物を見て「恐怖」する姿が丁寧に描かれており、その点においても好感を抱きました。私は、楳図先生原理主義者ですから、女性が何かを見て「怯えている」姿がタマラナク好きでして、怯えフェチと言いますか(笑)、もう怯えられてるだけでご飯三杯はイケるのですよ。

劇中における矢島さんも、ゾンビとのファースト・コンタクトでしっかりと怯えていらっしゃるんです。単なるファンサービス・カットではなく、作り手がちゃんとその「怯え」を信じてショットを捉えているのが分かります。
この「怯え」という対比があるからこそ、後半以降の眼差しの力強さも、より効果的なヴィジュアルとして、私たちの網膜に焼き付かせることを成功させているように感じます。

アクション面に関してですが、元々℃-uteはダンスに定評のあるグループですから、矢島さんの身のこなし具合には微塵も心配ご無用です。(アクション指導をなさった亜紗美さんによると、ダンスの動きとアクションの動きは若干異なり、まずはそれを修正するトレーニングから始めたらしいですが、矢島さんはモノの数分で映画アクションを取得されたとか)

華麗にアクションをこなした後に魅せる、あの顔。
「キメ画」がしっかり映えるのも、矢島さんの魅力の一つですから、古今東西、様々なアクション映画で活躍を目撃したいと切に願っております。
そういう意味で彼女を、映画ボンクラにとって永遠のアクション女優、志穂美悦子さんの再来と賞賛したい所存です。
え、褒め過ぎだって? さきイカ喰ってのどにつまらせて死ね!(また℃-uteネタです、すみません・笑)

【アイドルがアイドルを「殺す」】

劇中、矢島さんがゾンビ化した女子高生・小明さんの頭部を掴み、そのまま扇風機へと突っ込む場面があります。
このシーンは、スプラッターとして噴き出す血の雨の多さ(さすがは西村映造!)、「もう死んでるけど死ねー!」という素晴らしい台詞(ちなみに、この台詞は脚本には無く監督のオリジナル)などがあり、大変愉快な仕上がりとなっています。

しかし、この矢島舞美と小明という二人のアイドルが対峙し、退治する・される(駄洒落じゃないですよ・笑)という縮図に、私の心は引っ掛かりを拭えません。

矢島舞美さんは現在23歳にして、既に芸歴12年(!)という驚くべきキャリアの持ち主ですが、無論、℃-uteがスターダムをのし上がるまでの道のりは険しく、悔しくて悔しくて、ぶち壊したい夜もあったと察します。(文章がおかしいですが、おかしいのは当たり前で、これは℃-uteのNEWシングル『次の角を曲がれ』より歌詞を引用しているからです。ご容赦願います・笑)

一方、小明さんと言えば、名著『アイドル墜落日記』などからも分かるように、アイドルとして「売れない」自身を自嘲し、自虐的にエピソード化することにより注目を浴びたアイドルと言えます。最近ではゾンビアイドルとしても有名ですが、彼女の芸歴13年という年月も、決してポジティブシンキングでは語れない苦悩に満ちた日々だったはずです。

僅か1年の差とは言え、そして同じ「アイドル」と呼ばれる職業とは言え、矢島さんが小明さんを退治するという描写は、現在アイドル界の縮図のようにも見えました。
それはまるで、勝者と敗者の関係性であり、或いは、勝者から敗者への勝利宣言でもあるかのようです。

「もう死んでるけど死ね」
あなたは今、アイドルを目指しているのかもしれない。
でも、これ以上アイドルを続けたって、いつ成功するかも分からないし、その保障もない。
次から次へと、アイドルという名の新しい少女たちは生まれて来て、そして「死んでいく」。
アイドルは夢のある職業だけれど、同時に犠牲にするものも沢山ある。
これ以上傷付く少女たちを見たくない。だったら、私があなたに勝って、私が「殺す」。
矢島さんの叫びは、もしかすると、そんな哀しき叫びだったのかもしれません。

しかし、その叫びを受けて抹殺された小明さんは、敗北宣言を示しません。
胴体から首が切断され、地面に転がる小明さんの頭部。
その顔が一瞬、ニヤリと笑みを浮かべます。
「そんなの分かってる。だからこそ、私はあきらめないし、負けない。なぜなら私は、アイドルだから
まるで敗者から勝者への、いや、アイドルからアイドルに対しての、ネバーギブアップなファイト宣言のように。

ともすると、この身勝手で深読みな憶測は、小明さんサイドに対して完全に失礼な言論でありますから、とてもこんな場所に記すべからずだとは思うのですが、あの小明さんならば許して下さると信じて、インターネット大海原への公開を決意した次第です。

とは言え、ホントにこれは完全な私の深読み(という名の遊び・笑)なので、あらゆるアイドルファンの皆さま、並びに℃-uteファンの皆さま、マジにしないでくださいよ(笑)
自分で述べるのは恐縮ですけれど、恐らく、『ゾンビデオ』に関して上記のような見解を示したテキストは、全世界初、銀河系初だと自負しておりますので(笑)


【世界一HAPPYなアイドルのファンは、世界一HAPPYなファンになれるか】

ゾンビ映画における「ゾンビ」というのは、大抵の場合は「何か」のメタファーとして描かれることがほとんどです。
では、『ゾンビデオ』における「ゾンビ」とは、一体何を象徴しているのでしょうか。

私は「アイドルを妨害するあらゆる困難」として捉えました。

それは、ちょち宗教的なファンであったり、病気や怪我であったり、年齢であったり、時間であったり、そして恋愛であったり。
イケメンの宅配業者の青年が、矢島さん自身の手で殺されるというシークエンスは、アイドルが「恋愛」を拒絶しなくてはならない存在であることのメタファーではないでしょうか。

このように、『ゾンビデオ』はアイドルとゾンビを掛け合わせた題材としての宿命をしっかりと背負っており、それは結論、ラストシーンまで徹底されているように思えました。

こんなにも全編血まみれなのに、エンドロールには℃-uteの『世界一HAPPYな女の子』という、とてつもなく幸福なアイドル・ソングが流れます。

女の子って不思議
少しデインジャーな恋愛
求めながら生きている

正直言ってチャライ
あいつにちょっと I LOVE YOU
どうやって距離縮めようかな

ほんとはね そう 悔しい
負けたくない
世界一で一番HAPPY!
目指すんだもん!

それはまるで、危険なゾンビたちと格闘し続けた矢島さんの歌であり、同時にアイドルであることをあきらめない小明さんの歌でもあるかのように響き渡ります。
少し危険で、犠牲もある。
それでも、自分に負けたくない。
なぜならわたしは、世界で一番、HAPPYなアイドルになるのだから。

ああ、映画の神様! アイドル映画が撮れる監督! つんくさん!
願わくば、℃-ute5人が主演となる劇映画を世に放ちまして、私にもう一度、このカタルシスを体験させてください。
それまでは死んでも死に切れん! いや、死んだらゾンビとして蘇るまでよ!
その時は矢島さん、どうか気持ち良く、俺をぶっ殺してください!(いよいよロジックも発言も危うい)

と、私が『幕が上がる』を鑑賞して感じた「悔しさ」と「羨ましさ」というのは、まさにコレのことです。
モノノフの皆さんよ、アンタたちだけが世界一HAPPYになるのは許さんぞ!(笑)

ということで、矢島舞美さん、並びに℃-uteの皆さん主演の、世界一HAPPYなアイドル映画が完成されることを夢見て。
そして、それが実現した暁には、私たちは次のように述べてもいいのではないでしょうか。
我々は、世界一HAPPYなファンである、と。


【関連記事リンク】
灰とダイヤモンド 『幕が上がる』
今まで私が書いてきた文章の中で唯一バズって(笑)、トンデモない閲覧数を叩き出してしまった『幕が上がる』に関する記事です。もっとも、以前は「モノノフではない映画好きが書いた『幕が上がる』評」でしたが、今回は「アイドルファンでは無いが唯一ファン宣言している℃-uteファンの映画好きが書いた『ゾンビデオ』評」ということでした(笑)




追記1
今回はあくまでも『ゾンビデオ』内の矢島さんについてのみ記しましたが、本当は駄文の許される限り色々と書きたいことがあるので、続きは「矢島舞美の雨女特集」にて!(嘘!)

追記2
痛いっ!な、殴らないで!なんで矢島舞美のことばかりで中島早貴について全然書かれてないんだって怒らないでください!キャプチャ一枚も無いのも怒らないで!し、仕方ないでしょ、そういうロジックで語る文章じゃなかったでしょ、今回は!イテッ!いや、なっきぃも好きです!なっきぃも大好きですから!ぐはっ!痛いよ!


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2015年3月22日日曜日

黙祷できれば、葬儀は終わる 『アメリカン・スナイパー』

『アメリカン・スナイパー』(2014年/クリント・イーストウッド監督)
【あらすじ】
アメリカ人スナイパーが困ります。

ユニクロで購入したオレンジ色のフリース姿で『アメリカン・スナイパー』を鑑賞したのですが、鑑賞後に感じたのは、なるべく黒を基調とした「正装」をして本作を観るべきだった、という感情でした。

なぜなら、『アメリカン・スナイパー』は「映画」で「葬儀」を行うからです。

映画内に葬儀の場面があるという意味ではありません。
この映画全編、スタートからフィニッシュまでの総てが「葬儀」なのです。

果たして、喪服を着用するべきだったとは皮肉にも思わないものの、ユニクロのオレンジ色のフリースで「葬儀」に参列するべきだったのカシラ?と、極めて個人的な余韻に浸っておりました。

以下、日本公開から日数が経過していること、及び本作が「実話」を基にしたフィクションであることを前提に記しますのでご容赦願います。(私的にはネタバレではないと思いますけれど、そういうのイヤだい!って方はブラウザバックを。ってかイーストウッドの新作がシネコンで掛かってるのに「DVDでいいや」と観に行かないヤツ!お前はもういい!金輪際、映画好きと自称するな!)

ということで、私は『アメリカン・スナイパー』という映画を観たというよりは、「故クリス・カイルさんの葬儀に参列した」という印象の方が強く残っています。

は?主人公死ぬのかよ!あんだテメェオチ言いやがって!と抜かす輩に対しては、ブラウザバッグの推薦文を読んでいないのかと疑問を抱くと共に、朝・夕の報道番組内においても、彼の死がニュースとして扱われていた事実を述べておきす。(ってか、いいから行け!劇場へ!)

勿論、アメリカの観客は「クリスが亡くなっていることが前提」で本作を鑑賞していますし、この結末にネタがバレたと文句を垂れるのは、少々的外れな気がしなくもありません。
と言うか、私の意見としましては、本作は初めからその「前提」ありきで観た方が、より楽しめるのではないかと思っています。
葬儀に参列するのだから、誰が亡くなったのかぐらいは既知していても良いのではないかと。

幼い頃より父親から「狼から羊たちを守る番犬になれ」と教育されたクリス・カイル。
彼は強い愛国心から海軍に志願し、後に特殊部隊ネイビー・シールズへ入隊します。
そして、抜群の腕を持つ狙撃手として、イラク戦争の最前線へと繰り出します。
よっしゃ、愛する祖国のために狼たちを倒しまくるぜ!と、彼がスコープを覗いた先には…
え、女? 子ども?
そう、実際にスコープの先に居た標的は、狼ではなくだったワケです。

もはや、この構成だけで心撃ち抜かれたと言いますか、現代アメリカが抱える病理を鋭くえぐってみせたと言えましょう。
もうブレッブレに揺れまくる、このヒロイズム感。
もはや喪失されつつあるアメリカのマッチョイズムや、真にデタラメだったイラク戦争への皮肉として、こんなにもストレートで巧みな描かれ方があったでしょうか。
さっすがイーストウッドです。

で、そういう点も踏まえて記しますが、一部で賛否両論騒がれている「戦争賛美映画」or「反戦映画」みたいな論争ですが、(これは定点カメラ視点の逃げ発言では無く)私には微塵も興味がありませんで、とても歯痒く、とても不毛に思えて仕方ありません。

前述した通り、私は本作を一つの「葬儀」として捉えており、喪主であるイーストウッド御大による、故クリス・カイルへの「映画」という名のレクイエムだと信じています。
「戦争」に対する様々なテーマ性が込められた作品なのは間違いありませんけれど…あのさあ、もっと気軽に楽しもうよ。映画なんだから。実は少年漫画みたいな燃えるハナシなんだから!(笑)

つまりは、ラストシークエンスからエンドロール以外は、故人がどのような人生を生きたのかを紹介するセクションであり、時にはユーモアも交えながら、その思い出や生き様を見ているような錯覚に陥ったのです。
ちょち矛盾しますけれど、「アイツはマジで伝説の男だったんだぜー」「いや、あの時はアイツも大変だったよなー」という、通夜で晩酌しながら語らう思い出話のようなノリだと思っています。

不謹慎ながら、随所の銃撃シーンには心からの興奮、高揚を隠し切れず、終始カッケーと笑みを浮かべて鑑賞しておりました。
敵サイドに、元オリンピック選手の狙撃手「ムスタファ」(電動ドリルに鳥肌)を配置するのなんて、まさに西部劇。
アフガニスタン(へと見事に変貌を遂げている、実際はモロッコ)で繰り広げられる銃撃戦の数々だけでも、本作を傑作足らしめる十二分な要素かと思っています。
本作がアンチ・カタルシスであるという論評を見聞きしましたが、後述するラストシークエンス以外は、私は全くそうは思いません。
正真正銘、『アメリカン・スナイパー』はエンターテイメントだと思いますし、イーストウッドだって、めちゃくちゃ楽しそうに現場で指揮をしていたはずだと想像してしまいます。
と言うか、そのイーストウッドのハイテンションな様子が、伝わってきませんか、スクリーンから!
砂嵐のように!(笑)

このテの作品を言語化しようとする際に、私たちの厄介な固定概念として「楽しんだら不謹慎だと思われる」みたいな感情ってあると思います。
「戦争を扱った題材だから、面白いとか楽しいとか思っては、それは人として不謹慎?」
断固として言えます。答えはノーだと。
なぜなら、これは「映画」だから。
それ以上でも、それ以下でもありません。

本作が実にイーストウッドらしいと言いますか、彼の優しさが心底感じられたのがラストシークエンスです。
私はてっきり、(実際の出来事と同様に)ラストはクリスが元軍人の男に殺害されるのかと思っていました。
いや、結果的に殺害はされるのですが、本作は「それ」を描きません。
クリスが殺害された事実はテロップで表され、代わりに映し出されるのは、彼の葬儀の記録映像です。

本来であれば、非常にエンタメとして機能を続けていた本作ですから、ラストシークエンスにおいても、クリスの死が描かれた方が物語性は増すかもしれません。
でも、葬式の終盤、ギャーギャー騒いでいるヤツはいないはずです。
何よりも、イーストウッドの配慮と言うか心意気が、ラスト直前に移された子どもたち、そしてラストカットを飾る妻、残された家族たちへ捧げられているように思えて、目頭が熱くなりました。
クリス・カイルは、アメリカン・スナイパーである以上に、一人の父親です。
そのことを私たちに再認識させて、この葬儀はラストランへと突入します。

極上のエンターテイメント体験をした後に待ち受けるのは、エンニオ・モリコーネ作『The Funeral』の旋律が乗る実際の記録映像。
そして、まるで「黙祷」を意味するかのように無音が続くエンドロール。
「映画」という名の「葬儀」は、我々観客の「黙祷」により終わりを迎えます。

『アメリカン・スナイパー』を観て、どよーんと落ち込んだ人も、熱く興奮した人も、戦争賛美なんか許せんと怒った人も、反戦映画として褒めちぎった人も、あらゆる総ての人々が、
最後にしっかりと「黙祷」なされたことを、心から願っております。
一つでも多くの、哀悼が届きますように。


ところで、この映画、鑑賞後に猛烈に思うことがあります。
音楽が欲しい!!
そう、あの無音のエンドロールの余韻から解放されると、途端に音楽が聴きたくなるのです。
だからこそ、私たちが家に帰って、するべき最善策は一つしかありません。
さあ、今すぐBlu-rayディスクをセットして、大音量のボリュームで鑑賞しましょう。
『ジャージー・ボーイズ』を。


追伸
「なぜ私に声を掛けたの?」「悲しそうだったから」
「バーから私を救ってくれたのね」「いや、君からバーを救ったのさ」
言いたい!!!(笑)


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